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著者略歴
高徳芳忠(たかとく・よしただ)
東京計量士会理事。計量管理研究部会で活動。計量士・日計振の試験機検査員。2010年現在、日東富士製粉(株)の計量士として計量管理を担っている。
私の履歴書/高徳芳忠 INDEX
 『日本計量新報』2814号(2010年3月21日発行)より連載
著者略歴    
0.はじめに 1.我が家と計量の係わり 2.「異人さん」と「神戸メートル商会」
3.父(忠夫)のはかり屋 4.私の誕生 5.魚崎小学校入学
6.高徳家の由来 7.野山を走り回る日々 8.中学時代は受難の日々
9.父のはかり屋への復帰 10.西宮での高校生活 11.文学への傾倒
12.牧師と教会の人々 13.楽しき大学生活 14.国立大初の「計測工学科」に進む
15.消えた「計測工学科」 16.川崎製鉄(現JFEスチール)へ 17.千葉製鉄所へ
18.R熱電対の技術習得 19.消耗型熱電対の導入 20.ドイツ人と計測技術の導入
21.仲間達との交わり 22.電子計算機による制御 23.計量士の誕生
24.学振19委員会と計測部会 25.初めての計量管理委員会 26.計測しなくても良くなった話
27.失敗もあった 28.熱管理部門への進出 29.板形状検出機
30.ヨーロッパ出張 31.建屋集塵機の風量制御 32.兵庫県計量協会
33.謡と仕舞い 34.父の引退 35.BHPへの技術援助
36.ソ連向きカラーライン 37.モスクワの町並み 38.現地調整・指導で長期滞在
39.ユーラーさんとの交流 40.大きな出来事 41.フランスへ計量管理技術輸出
42.私を支えてくれた家族 43.播州赤穂へ 44.FAラインの建設
45.東京計量士会 46.日東富士製粉東京工場で計量管理 47.東京計量管理研究会
48.終えるに際して    
    
はじめに

就職先は製鉄所の計量屋

 私は1936(昭和11)年に神戸の御影(みかげ)に生まれた。当時父は高徳衡機(株)(後に川鉄計量器工場)を経営しており、この事業を手がけた祖父から数えると、私は三代目の計量屋になる。県立西宮高校から神戸大学の計測工学科に進み、川崎製鉄(現JFEスチール)の千葉製鉄所、熱管理課計量整備掛で計量の仕事を始めた。
 ここを皮切りに約50年の計測・計量の人生が始まった訳である。と言っても時代の流れ、技術の進歩はすこぶる速く、入社した頃の“計量管理”はまず「計測から制御へ」に、次には「制御技術」に吸収され、発展解消していった感がある。しかし私は未だに“計量管理”が好きで忘れられずにいる。それは単なる郷愁ではなく、計量・計測をおこなう事によりプロセスの中から大切な現象を見つけ出すという解析力とでもいうようなものを持つべきだ、未だに計量・計測の方に重心を置くべきだとの主張があるからだ。
 千葉で4年を過ごした後、神戸に帰った。葺合(ふきあい)の本社工場は歴史もあり計量管理組織もガッチリと固まっていた。計量士として兵庫県計量協会に出入りするようになり、そこで管理部会長の下働きを2年と2期務めたりもした。こちらの工場は千葉と異なり付加価値の高い珪素鋼・カラー鋼板・ステンレス鋼板を製造する工場であったので、仕事もきめの細かいものであった。中堅として働き、プロセス用コンピュータ等を導入、熱技術・環境計量士の勉強もした。

現場を離れ東京へ

 1984(昭和59)年、阪神でのこれらの仕事が漸く片付いたところで東京本社のエンジニアリング事業部へ移った。オーストラリア、フランスへ技術援助もあったが、ソ連へのカラー鋼板製造ラインの輸出が主であった。この仕事では計測と制御用計算機を含めたオートメーション部門を受け持ち、現地でも1年半の技術指導を経験した。
 日本に帰ったときは56歳の管理職定年で、播州赤穂の川崎炉材(株)へ出向となり、10年ぶりに兵庫県計量協会へ顔を出して、皆さんに喜ばれた。特に管理部会の方々と消息を確かめ合ったりして、その後もよく顔を出す事になった。
 川崎炉材(株)では、耐火レンガの材料の自動計量と混練工程の自動化を手始めとして、次には、不定形耐火物の受注から発送に及ぶ全製造工程を3階層にわたるコンピューターシステムを完成させた。
 これが川鉄での最後の仕事であったし、工場での計量士としての有終の美を飾った気分で計量士会を脱会すべく神戸に向った。

計量界へ

 ところが、(社)日本計量士会兵庫県支部で小川敬司支部長に会い、私も退職となったので計量士会を脱会したい旨申し上げたところ、小川先輩の「貴方も長い間、計量士の活動をしてこられたのだから、東京に行かれても、引き続きやられたら宜しいやないか」「東京の方々にも紹介しましょう」との言葉に驚いた。話をしているうちに、計量界の方々は常に広い視野を持ち全国を見渡しておられること、そして同じ計量士仲間に対しては親切に対応して下さることがわかった。このような計量士気質に引かれて、退会の挨拶のはずが「よろしくお願いします」と言って帰る次第となった。
 東京に帰って早速、新宿区納戸町の日本計量会館に赴き、奈良部尤支部長を訪ねたところ、「兵庫の小川さんから話は聞いている、とにかく転入会の手続きをしておけばよろしい」との事。その後出羽善衛さん門下に入り、試験機の検査業務を習うと共に日東富士製粉(株)の計量士となり、今日に至る。
 最近は、日東富士製粉(株)の東京工場に週2日通いながら、(社)東京都計量協会の計量管理研究部会を中心に、私が歩んできた適正計量管理事業所、特に製造業での計量士のあり方を考えているのが現状である。
 以上、略歴を紹介してきたが、次節からは時代を遡り、我が家と計量の係わりから語りおこしていきたい。

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我が家と計量の係わり

祖父の専門は中国語

 私の祖父の高徳純教は、播州の門徒寺(浄土真宗)の出身である。兄弟は皆住職になったにもかかわらず、一人だけ上京、早稲田大学に入学し、挙句の果ては東京外国語大学の中国語学科を卒業した。その後高徳家に婿養子として迎えられ、川崎造船所社長の松方幸次郎と親しかった義父(私の曾祖父)藤五郎の紹介で同社に入社。彼の大陸政策の先兵として働き、清国の西太后にアプローチして中国東北部の大連に土地を買い造船所を建設する了解を取り付けた。父も4歳から6歳の2年間を大連で過ごしたと聞くから、長期にわたった仕事であったのだろう。
 帰国後は国内でも、製鉄・航空機への事業拡大のために、神戸・西宮・岐阜の工場用地の買収や登記を主業としていたようである。
 ところが、昭和の大恐慌に遭い退職、これを機に「はかり屋」を始めたらしい。しかしまた直後に、松方社長に呼び出されて、会社の倒産を防ぐために、今度は苦労して買い付けた大連の土地を売りに行ったというから、当時の雇用関係はどうなっていたのか。
 祖父は、在職中も銀行筋からは信用は凄くあったらしいから、多分この「はかり屋」も、友人・知人の頼みがあって、在職中から手がけた事業であったと推測する。勤めていた川崎造船所の仲間に頼まれて、出資したのか、名前を貸したのかが始まりであったような感がある。彼の本業は、中国語の他は土地の売り買いや登記であったのだから、「はかり」など思いつく訳もないし、いくら昔と言っても、素人に「はかり」の修理や販売は無理であろう。

祖父のはかり屋開業

 「はかり」を買って取り付けたがメンテナンスをしてくれる人がいない、ということはよくある話である。
 祖父は、造船所のこのようなニーズに応える集団を背負い込んだと思われる。とはいえ、祖父が起業化した事業の中身は、兵庫にあった修理工場と元町の店のみであった。その後、父が「はかりの製造許可」を取って初めて製作したのが20tの鋼板用はかりであり、その納入先が川崎造船所であったことから推測しても、当工場では造船所で使用している大型はかりの修理を受け持っていたようだ。
 祖父は私が生まれる1年前に他界しているので、祖母や叔母、両親から聞いた話のみであるが、若い頃に浄土真宗の得度(お坊さんの資格)を済ませた人であり、人格者であったかも知れないが、商売には不向きであったのだろうと想像する。ただし先見性は人一倍優れており、常に前向きであったようだ。
神戸メートル商会
 私は兵庫の工場には行ったことはないが、店の方には幼児期に祖母に連れられてよく行ったのではっきりと覚えている。
 元町3丁目、繁華街のど真ん中にあり、ショーウインドーには直尺やハカリ・メスシリンダーを始め、製図用品や文具までが並んでいた。店の名前が「神戸メートル商会」であった事を今考えてみると、この祖父さんにしては良くできすぎていたと感心する。
 1921(大正10)年に「尺貫法」が法律上で廃止されたとはいえ、当時の庶民間ではまだまだ尺貫法が盛んに用いられていた折であった。率先して社名に「メートル」を用いた祖父の気概に敬服する。神戸のハイカラが好きだったのか、国際派の松方幸次郎の影響か。 後の父の話によると、後刻この「神戸メートル商会」を変えようと提案しても祖父はがんとして受け付けなかったらしい。
 祖父は結局この事業で失敗したらしく、父が受け継いだ時には、祖父が在職中に得た財産を殆んど処分したとの事。それでも父は、この「はかり屋」を受け継ぐことで、人生のスタートとしたのである。そう為さざるを得なかったらしい。

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「異人さん」と「神戸メートル協会」

郷里の街「元町」

 ついでながら、ここで我が郷里の街、神戸の元町について触れておきたい。
 最近は三宮センター街に首位の座を譲った感があるが、戦前・戦中・戦後のある時期までは、ハイカラな神戸の街といえば元町であった。元町駅近くの1丁目には大丸百貨店があり、神戸駅近くの6丁目には三越があり、この2つのデパートに挟まれて賑わっていた。加えて海岸寄りには平行して南京街もあり、食堂街としても人気があった。
 幼い頃からの馴染みであったのに留まらず、中学・高校生の頃は祖母や叔母(父の妹、高徳純教の娘)に連れられて、おすし屋、うどん屋、おしるこ店等に立ち寄ったし、大学生になってからは、本屋・古本屋、音楽喫茶にも顔を出していた。
 50歳を過ぎた頃、仕事で1年半程ソ連で過ごした時にも「帰国したならば一度は元町を歩いてみたいなぁ」と思った程、思い出多い街である。

母は船場の生まれ

 母は大阪の船場の商家の生まれで、“こいさん”(末娘)として育った。家でお茶・お花・お仕舞を習っていたが、外に出るときは店の人が付いたらしく、余り街をぶらつくようなことはなかったらしい。また大阪は神戸に比べて西洋化が遅れており、一番の繁華街であった心斎橋筋といっても神戸の元町の比ではなかったようだ。
 母は私達子どもに、女学校で水泳が得意だったと自慢していたが、私達の子供時分には、泳ぐプールにも恵まれなかったので半信半疑で聞いていた。仕舞は、師匠が父親に教える為に自宅に通ってきてくれていたので、一緒に教えてもらっていたと、後々も良く聞かされた。
 この母が神戸に嫁いできたので、その頃、祖父がいた元町の店「神戸メートル商会」にも自然と行くことになったのだろう。神戸ではアメリカ人・ドイツ人等は珍しくも何ともなかったが、大阪育ちのこの母にとって見れば、初めての体験だったのだろう、「異人さんが通ってはる!」と祖母に報告して笑われたとか。

気丈な姉

 私の姉が幼い頃、元町の店に遊びに来ていて、人通りが多く賑やかなので、つられて遠くまで歩いていってしまったことがある。いないのに気づいた店の人達が大騒ぎとなり、あちこち手分けをして探したらしい。
 その一人が、人だかりに気づき後ろから肩越しに覗いたら、真ん中に姉がいて、全く気後れした様子も見せず「神戸メートル商会、神戸メートル商会」と大声で繰り返していたという。
 祖父が命名したこの名前に誇りを持っていたのか否かは知らないが、幼少ながらも気丈な姉のエピソードとして祖母が話してくれたものである。
 私と年子の姉はしっかり者で、私のこともよく面倒を見てくれた。私が小学校に上がる頃になっても、姉が出かける時には後ろから付いて行き、嫌がられていたらしい。
 ある時キッパリと「ここからは、もう帰り!」と云われ、仕方なくトボトボと帰ったことを覚えている。
 元町の店に関する私の思い出は、ショーウインドーのガラスに、通りを歩く人が逆さに映っていたこと、同じ3丁目で3、4軒隣に「きんつば」の高砂屋があり、祖母に連れられてそこに行くと美味しいプリンが食べられた事ぐらいである。

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父(忠夫)のはかり屋

祖父と伯父達に勧められる

 父は、祖父が始めた「はかり屋」の跡を継いだのであるが、そうなる前ははかりのことなど何も知らずに関西学院大学で英文学を学んでいたと聞く。従兄弟達とオーケストラを組んで楽しんでいた写真も残っているので、随分裕福な青年期であったのだろう。
 そんな父が急遽、大学を中退し東京の度量衡講習所に行ってはかりの勉強をしたというから、父も祖父に押し付けられたのか、火中のクリを拾った感がある。
 しかし父からは祖父の悪口は聞かなかったので、多分、たくさんいた母方・父方の叔父や叔母から相談や説得があったのであろう、と想像する。特に母方の祖父にあたる実業家の直木政之助の発言力が大きかったと思われる。まさに一族の力である。

度量衡講習

 1927(昭和2)年9月、父は上京し度量衡講習所に入所した。
 当時は新橋の商工省の本館に隣接した中央度量衡検定所の4階が教室で、朝8時から夕方4時、5時までビッシリ授業があった、と日記に記している。午後は実習に当てられ、講習生は殆どが全国の検定所勤め人であり学生のごとき呑気さは微塵もなかった、とも続けている。大学を中退して参加した父はさぞ面食らったであろう。授業料は無料であった由。
 しかし、当時大学出の初任給が45円程のころ、月200円を送金してもらい、40円の下宿代を払っていたというから、周りからはどこかのドラ息子と思われていたのでは、と心配する。
 下宿は歌舞伎座の近くにあったらしい。父も歌舞伎を見によく通ったのであろう。お富さんの一節はよく覚えていて、機嫌の良い時にはよく聞かされたものであった。
 私が最近ふと得た講習所の名簿には同期として、千葉県の恵藤計器(株)の恵藤さんのご尊父の名前もある。

はかり屋を開始

 父は、度量衡講習所を修了後、祖父が経営する「神戸メートル商会」に入社。兵庫の修理工場で働きながら研鑚を積み「製造免許」を取った。それ以降は父が製造を進め、祖父が営業を受け持っていたようである。
 当初は川崎造船所が大の得意先であったが、三井物産向きの綿花用はかりも造ったりして販路を増やし、工場の人員を増やしていった。
 その結果、私が誕生した1936(昭和11)年には、深江に工場を新設し社名を「高徳衡機(株)」とした。これは祖父の没後、父高徳忠夫の最初の仕事であった。
 昔は今の「計測」・「計量」より「度量衡」・「衡機」の呼び名がはやっていたのである。
 後々の父の言によると、祖父から事業を受け継いだときの財務状態はいたって悪く、祖父が在職中に得たボーナス・退職金を全て穴埋めに使ったそうである。しかし、祖父が命名した「神戸メートル商会」は商標として残り、工場のヤード正面に大きく描かれていた。
 この高徳衡機(株)になってからは業績も次第に伸び、川崎重工以外にも兵庫県庁、大阪の支庁にも顔を出すようになったと、父の日記等にも記されている。主に工場や産業用の特殊衡機が主力であった。
 私が川崎製鉄に入社後神戸の<RUBY CHAR="葺合","ふきあい">工場に転勤になった1966(昭和41)年、現場の職長が「いい物があるから見ておきはったら」と言うので現場に行ってみると、高徳衡機製5tの規格型の台秤があった。大よそ30年も前に我が家の工場で作られたはかりとの再会であった。
 1938(昭和13)年の六甲大水害の時は、工場も相当な被害を受けたようである。それを乗り越え、さらに一人前の企業に育てていった父の努力には、頭が下がるものがある。
 次は大戦である。中小企業であった高徳衡機(株)は、戦前岸信介商工大臣が出した大企業統合令により、後に川崎重工に引き取ってもらうことになるのである。

出会いの不思議

 父は同時に度量衡統制組合にも属して、本省機械局計量課や兵庫県の計量課にも出入りして横の繋がりも広くしていったようである。
 川重はもちろん、神戸製鋼の計量担当の方にも懇意にしていただき、この辺りの方々が戦後の父の川鉄への復帰の足がかりを作ってくださったと聞く。
 人間社会とは不思議なもので、当人達がその時は全く考えてもいなかったことが、数年先にその当人達の間で起こる。出会いとはそのようなものであろう。
 1944(昭和19)年に父が事業を閉じた後、先に触れたような意外な出会いによって、当時の西山社長に請われることとなり、新しく社員として川崎製鉄に入社したのが1950(昭和25)年である。

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私の誕生

神戸の御影

祖母に抱かれる筆者(写真中央)

 私の誕生は1936(昭和11)年9月である。同年には2・26事件があり、明けて1937(昭和12)年には盧溝橋が爆破されたりで戦争の気配が漂い始めた頃である。2年後には六甲の大水害により神戸が多大な被害をうけたりと、環境的に落ち着かない時代であったようだ。
 3つ上の兄、年子の姉に続いて私が誕生したのは、神戸の御影(みかげ)という、阪急とJRに挟まれた静かな住宅街であった。しかし間もなく新設の工場に隣接した深江(ふかえ)に引っ越している。
 母達は赤ん坊が憶えているはずがないと言うが、私はこの御影の家で、確かに遠くに省線電車(JRのこと、昔はそういった)が走っていたこと、庭先に石の灯篭が在ったことを記憶している。
 お宮参りをしたと聞く、近くに在った「ゆずり葉神社」一帯は、後になって浪人時代予備校への通い道の近くでもあったので、よく散歩したものだ。大きな屋敷の土塀があり、竹林があり、心が落ち着くたたずまいが好きであった。
 よくいわれる「第二の誕生」、私の思春期・哲学の始まりも、この地であったような気もする。

深江の工場

深江の工場 ヤード正面に神戸メートル商会の商標が(写真は工場閉鎖時)

 深江の工場の家では、兄が学校に入学するまで育てられた。この家には寝たきりのような曾祖母がいた。その枕元からお菓子を取り、階段を駆け上がって2階に逃げると、曾祖母さんは下から階段を叩いて「下りていらっしゃい」と言っていた。曾祖母さんの唯一の想い出である。
 家の周りは田んぼばかりで公園などもなく、庭先と工場が遊び場であった。勝手口をそーっと開けて、工場に行き、そこでペンキをいじったり、覚えている箱からローセキ(罫書き用であったろう)を取り出して落書きをしたりで、工場の人達の仕事の邪魔をしていたようであった。
 当時の私には兄と姉が1人ずつ、下には妹が2人いた。兄が小学校に行くようになったので、一家は通学が困難な深江から住宅街である魚崎の小学校の近くに引っ越した。裏の勝手口を出ると広っぱがあり、その向こうに学校の塀が見えていたのを覚えている。
 周りの人達は関西風に兄を「ぼんちゃん」と呼び、私を「小ぼんちゃん」呼んだが、言語の発達障害気味であった私は、自分のことを単に尾っぽだけを取って「ちゃん」で済ましていた。ほとんど喋らずに春さん(主として私の世話をしてくれていた女中)や姉の後をついて回っていたらしい。また祖母さんが出かけるときには、一緒に人力車に乗せてもらうことを楽しみにしていた。

幼かりし頃

六甲山に草履で登ったとき(前列中央が筆者)

 皆の語り草にされて恥ずかしく思った話がある。
 3、4歳の頃であったろうか、私の世話をしてくれていた女中の春さんに、あるとき「ちゃんがポンプを押してあげるから、はよ春さんは拭き掃除しいな」と言ったそうだ。
 春さんには次々仕事があってなかなか遊んでくれないから、遊んでもらいたい一心でそういったにもかかわらず、春さんは「こぼんちゃんは優しい子や」と自慢そうにこの話を家人にしていたので、子供ながら申し訳ない思いだったものだ(当時我が家にあった井戸のポンプは、上下に押すのではなく前後に押すもので、子供でも押せた)。
 能楽に連れて行ってもらって退屈したこと。子ども達が並ばされてのお茶の会、お菓子は好きであったがお茶が苦かったことも覚えている。
 楽しかったのは、父に連れられて行った兄弟姉妹揃っての六甲登山であった。
 足袋を履いて、藁草履、その鼻緒の後ろを更に布紐で止めてもらえば、靴よりも軽く歩けたものだ。
 父を先頭にして子ども4人が(後の2人はまだ幼児と赤ん坊)列を成して続いた。多分山頂までは行かずに途中までであったと思うが、暑い夏の日に裸になって岩陰に溜まっていた水を浴びた(私たちはそれを「アービチャン」と呼んでいた)のが何よりの楽しい思い出となっている。

5歳頃(右から2番目が筆者)

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魚崎小学校入学

何も分らぬ小学生

 1943(昭和18)年、私は魚崎小学校に入学した。我が家では、幼稚園にいけば病気がうつるからという理由で誰も幼稚園には行かなかった。その上に言語障害気味であった私は、言葉も出てこないし、数も読めない。入学式の帰り道に、母に手を引かれながら数をかぞえさせられた事しか覚えていない。
 学校は近くであったが、戦中の事であったためか近所の子供達と並んでの登校であった。その列に入るのに気後れしたのか、女中の春さんに付いてきてもらうのが常であった。
 そんな状況であったから、学校での勉強などは到底分かるはずがない。人に話しかけても相手は辛気くさがって向こうにいってしまうので、大抵は独りでいたような記憶がある。今流に言えば間違いなく「落ちこぼれ」であったろう。兄や姉が私のことをよく「修身、体操 可2つ」とからかっていた(当時の通信簿は上から順に秀、優、良、可、不可の5ランクであり、可は下から2番目で付いてはならない成績であった)。

亀に見とれて

 身体は弱くはなかったが、よく中耳炎になり医者に通った。母が教室に迎えに来てくれてお医者さんに行くのが何となく楽しかった。
 ある日、遊び時間に皆と一緒に校庭に出た。例によって私は独りでうろうろしていたが、校庭と校舎の間の溝に1匹の亀を見つけた。亀は溝をごそごそ歩いて、溝の蓋に当たる校舎と校庭の渡し通路のトンネルの中に入っていった。上から覗いていると反対側の僅かな明かりの中に亀の黒い影だけが見えていた。それに見入って、ふと気が付いて周りを見渡してみると誰も居ない。遊び時間は終わり皆は教室に入っていた。
 急いで下駄箱に向かったが、どこが私の下駄箱なのかさっぱり分からない、帰るべき教室も分からない。呆然としてしまい、頭に浮かんだのは、「春さんに来てもらって!」。
 幸いなことに、途方に暮れている私に気づいてくれた、小遣い(用務員)さんが教室まで案内してくれて、事なきを得た。

戦争の記憶

 幼い記憶で断片的ではあるが、日本が真珠湾を攻撃して開戦したことや、シンガポール陥落は知っていた。
 戦局が悪くなり(当時は知らなかったが)1年〜2年生の時に既に防空演習が始まりかけていた。服には名札の布を付けてもらい、防空頭巾を被って、サイレンの合図で裏の広場に造られた防空壕に入る練習をしたものだ。
 夕焼けの空高く飛んでいる飛行機を「あれが敵機だ」と教えられ、戦争が間近になったことを感じて“鬼畜米英”の恐ろしさを体験した気分になっていた。
 その飛行機は爆撃はしなかったが、低空で飛んできたのでその爆音に驚いたのであろう、恐怖心が残っていた。
 2年生の夏休みに入って間もなく、疎開することを知らされた。以前に流線形の蒸気機関車に引かれた列車で家族揃って城崎温泉に湯治に行ったことがあり、その時に乗った同じ列車と聞いて喜んだ。
 私は幼い頃から汽車が好きで、母の話では、ある朝、汽車の模様が付いた浴衣を着せてもらったら、昼暑くなって汗をいっぱいかいても脱がせなかったこともあったらしい。
 また疎開先の丹波でも学校の行事で芋掘りに行き、帰路にトンネルから出てくる汽車を見たものだから、もう一回見ようと列を離れて、ひとりでトンネルの上で待っていた。1〜2時間に1本あるかないかの汽車だから夕暮れ近くになってしまい、帰ってみたら近所中大騒ぎになっていたことがあった。
 話は横道に反れたが、当時は疎開よりも、もう一度あのかっこ良い流線形の汽車に乗れる事の方が楽しみであった。あの夕焼けの空高く飛んでいた敵機から落とされる爆弾を逃れられるのだと聞かされても今一つ実感が湧いてこなかったが、特に仲良しの友達がいた訳でもないので家族一緒の安心感が先立っていた。

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高徳家の由来

ルーツは姫路

 我が家のルーツを辿れば播州姫路、姫路城より南に向かって飾磨への中点ほどにある野田、ここで酒醸造や両替商を営みかつ庄屋でもあったのが我がご先祖である。
 そんな商売でお城の殿様にも親しくしていただいていたのであろう、姫路藩ご用達となり、殿様より苗字帯刀を許されたらしい。
 そのとき我がご先祖は「我が家には児島高徳(※高徳→旧字)の子孫であるとの言い伝えがある、今苗字を付けることが許されたなら、この故事に従って高徳としたい、ただし児島高徳は尊い人であったので、同じように『たかのり』と読んだのでは恐れ多い。一部をかえて『たかとく』と読みたい」と申し出たという。
 殿様も同意して、そのように決まったのであろう。今でも姫路では高徳という姓は我が家の系統一族のみである。
 丹波の小・中学校、福知山高等学校で私の名前を「タカトク」と読んで下さる先生は、兄貴や姉を知っている先生だけであった。普通の人はたいがい「タカノリ」か「コウトク」と読む。
 私はその度にご先祖さんの気遣いを感じるのである。

児島高徳

児島高徳終焉の地 (群馬県邑楽郡大泉町)

 児島高徳とは、後醍醐天皇が隠岐へ遠流となったとき、天皇を救い出さんと試みたが道筋を読み誤り、失敗に終わった人である。無念にも、警備が厳重な院庄の天皇行在所を去るに際し、宿舎の傍にあった桜の木に『天勾践(てんこうせん)を空しくすること莫(なか)れ、時に范蠡(はんれい)の無きにしも非(あら)ず』と書き、中国の故事を引用して、次回は必ずや帝をお助けすることでしょうと決意を残すと共に、天皇を勇気づけた。
 このような歴史上の人の墓というものは、全国いたる処にあるようだが、最も確からしいのは、群馬県邑楽(おうら)郡大泉町の坂東太郎の土手近く、児島高徳神社の境内にあるものである。ここでは「高」も、「徳」も我が家のものと同一(=旧字)である。出生地の近くの赤穂市の坂越にあるものは「高」「徳」(=新字)となっていて、我がご先祖の思いが浮かばない。

姫路から神戸に

 高徳家はその後も、姫路城の藩主にはお金を融通していたらしい。廃藩置県に際して、当時の姫路藩主酒井忠邦より高徳藤五郎(私の曾爺さん)宛に、借金は返せない旨の書状が来ていた。金額4万6千円也とある。当時にしてみれば相当な額であったのであろう。
 その高徳藤五郎の代以降、我が家は姫路より神戸に出てきている。二代に渡って酒が腐ったとか、貸したお金が返って来ないなど不運が続いたためらしいが、これから発展してゆくのは姫路より神戸だとの判断もあったのであろう。
 藤五郎は神戸で米穀商を成功させ、市会議員や県会議員を務めている。この間に実業家の直木政之助とも懇意になり直木家の次女千代(芳忠の祖母)を養女とし、かつて養子縁組をしていた純教の嫁とした。
 祖父の純教は藤五郎の没後、姫路の高徳の「野田」にあった屋敷跡の土地を全て姫路市に寄贈している。私が高校生の頃、父に連れられて高徳家の菩提寺を訪ね、過去帳を見せていただいたときの話では、寄贈を受けた姫路市は小学校を作ったそうである。しかし、最近になって私が調べた限りでは、その跡らしき処に市民病院が建っていた。
 祖父の純教は、元々「野田」に隣接する「中島」にある浄土真宗のお寺の出であるから、公共心は旺盛であったのであろう。
 以上が我が家のルーツであり、姫路の高徳が神戸の高徳に変わった由来でもある。

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野山を走り回る日々−疎開地・丹波での小学生時代

自分のことは自分でせよ

 1944(昭和19)年、小学2年生の2学期から疎開先の丹波(正確には奥丹波だが、今の地図では京都府下の福知山市<RUBY CHAR="夜久野町","やくのちょう">という所)での生活が始まった。引越しが落ち着いたころ、私たち子供は座敷に並ばされ、父より申し渡された。
「爆撃を逃れるために、工場も店も手放して、ここに来たからには、何事も今まで同様にはいかない。女中さんにも帰ってもらった。これからは自分のことは自分でするように。また贅沢は許されない」というものであった。
 現に私に付いていてくれた春さんは魚崎で別れたままで丹波には来なかった(後になってお嫁に行ったと聞かされた)。丹波に来たのは末の妹と弟に付いていた2人の女中さんだけであり、彼女たちも間もなくいなくなった。
 それでも、9月10日の私の誕生日には外から料理も取り寄せて、各自朱塗りのお膳を並べて盛大に祝ってもらった。
 まだ戦時中のことであったので、神戸と比べると随分田舎で人の気配も少なく、山々に囲まれた静かな地であった。これからの小・中学生時代は、文字どおり野山を走り回り川で水遊びをする生活が始まったのである。

お寺は丹波で唯一の親戚

 幸い、田舎といっても、住まいは村の中心にあって学校・役場にも近く、医院は向かい、隣(と言っても100m位は離れていたが)はお寺だった。
 この浄土真宗のお寺は当地で唯一の親戚であり、我々が丹波に到着した時にも伯母さんがリヤカーを引いて駅まで迎えに来てくれ、本堂に隣接した大広間で歓迎の食事を頂いたのであった。
 それよりずっと後のことであるが、このお寺の池で鯉を釣ったり、庭で手製の仕掛け(撒かれた餌を取りにくれば籠が落ちてくるもの)で野鳩を取ったりしたこともある。<RUBY CHAR="院家","いんげ">に「寺の境内で殺生をするとは何事か」と怒られたものである。
 今から思えば、このお寺との行き来が、私の宗教生活の始まりであったのかもしれない。
 疎開した当初は、本堂に一家が並んで座り、院家から仏の講話を聴いたことも覚えているが、「これからは毎月来るのだ」と言いながら余り続かなかった。身内の心安さがそうさせたのであろう。
 また、この院家はお化けの話が上手で、我が家の囲炉裏を囲んでよく聞いたものであった。我が家は6人兄弟、お寺は4人兄弟という家族構成で、合わせて10人兄弟のように思って遊んでいた。

終戦を迎える

小学3年生頃 雪の日のブーツ姿(下段右端が筆者)

 明けて終戦の年の初夏のころ、ピカピカ光って空を飛ぶB−29なる敵機を見た。落ちてくるビラを拾って学校に届けた。神戸の夕焼け空で見てから2回目であったが、その威容には好奇心をかき立てるものがあった。
 玉音放送なるものをラジオ屋の前で聞いたが、雑音と音声の途切れで全く意味が解らず、後から戦争に負けたのだと聞かされた。
 その後冬になって相当な雪が積もった日、米軍のジープ・トラックが一団となって村に現れた。積もった雪をものともせず、轟音と共に雪を蹴立てて走る姿に唖然とさせられた。
 丹波に疎開してからも、学芸会で友と3人で舞台に上がり、日の丸の小旗を振り「日本よい国、神の国……」とお遊戯をしたり、雪の降る中をかなり遠方の駅まで出征兵士を見送りに行ったりして、きっと勝つのだと教えられていたが、あのB−29やこのジープを見た限りではとてもじゃないがアメリカは強かったのだと、つくづくと思い知らされた。
 物質文明の差、機械力の差は、この後も嫌というほど見せ付けられたのであった。

優しい先生と嫌な先生

 一方、学校の勉強の方はどうかというと、神戸の小学校では何も解らなかった落ちこぼれも、田舎に疎開したお陰で、優しい女の先生が実に親切に接してくれたこともあり、自然と小学生の態をなしていった気がしている。
 先ほど述べた学芸会のお遊戯に出してもらったことも、自分にとっては大きな自信を得る結果となった。
 ところがその後が悪い。3年生になり、受け持ちが嫌な女の先生に替わって急に勉強が嫌いになり、田舎特有のよそ者いじめに遭ったりして、夏休みに引き続いて10月頃まで学校には行かなかった。久し振りに行ってみると、九九が言えずに廊下に立たされたりと散々であった。正に落ちこぼれへの逆行である。 4年生では男の先生が気に入って、どんどん勉強も進んだ。5〜6年生になると、子供心にもそう思わせる、人格的に立派な先生が受け持ちになり、勉強も生活も整ってきた感がある。
 このように、結局小学校の成績は、その時に出会った先生が好きか嫌いかによって大きく左右されたような気がしている。もっとも、自分から勉強をしなければなどと殊勝な心がけを持ったことがないのだから、仕方がない。

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中学時代は受難の日々

田の草取りで文明の差を感じた

 私たちは疎開でこの丹波に行ったのであるが、戦時中の「中小企業は大企業に統合すべし」との国策に従い、会社を川崎重工に引き取ってもらって家族全員で移ったので、終戦になっても父は神戸には帰るところもない、職もないことになったようだった。 したがって我々は、私が高校1年生になる1952(昭和27)年まで、約10年間疎開地に居着いてしまったのである。
 後で聞いた父の言によると、疎開した当初は、10年程は優に食べられる蓄えがあったが、戦後の銀行封鎖とインフレでどうにもならなくなったらしい。一家大受難の日々の始まりである。
 父も村の方々と色々な事業を試みていたが、「はかり」とは違い、実らなかった。そこで「芸は身を助ける」と言われる如く、父がバイオリンを教えたり、母はお琴やお花を教えたりしていた。私や兄貴は、もっぱら田や畑を耕すのを手伝った。山に薪を取りにも行った。鶏やうさぎの世話は主担当が私で、妹や弟には手伝いをさせたが、頼りなくて、とてもまかせっきりではいられなかった。部屋の掃除は、姉をはじめ妹たち。
 暑い夏の日、お湯のようになっている田んぼに入り、草取りをする。稲の葉先が目を突くので網の面を着けて、である。かのアメリカではトラクターというものがあり、種まきから刈り取りまで全て機械がやるという。雑誌で見たアメリカの車のかっこよさ、そしてテレビジョンもあるようだ! 文明の差をつくづくと感じさせられたものであった。
 自分は大きくなったら機械や文明の利器を作るのだと、子供心にも誓ったものだ。幸い空襲は体験しなかったが、戦後の田舎で、きつい田畑の仕事の合間に見せつけられたアメリカ文明が、私に大きな影響を与えたといえよう。

働く為に食う

 ある日、父が私たち子供に「人間は食う為に働くのか、働く為に食うのか」と聞いたことがあった。兄と姉はすかさず「食べる為だ」と返事をした。次男坊である私は暫し考えて(私は生来返事が早い方ではない)「働く為に食う」と返事をして褒められたことがある。確かに食うだけでは、牛馬と一緒だと考えたからである。
 人間は「何か為すべきこと」があってその為に生きているから、食べなければならないのだろう。もちろん小学校4、5年の頃の私であるから「人の為」とか「平和の為」とかいった言葉は出てこなかったが、解らないながらも何かの為だと言ってその場を取り繕った記憶が残っている。

ものがあれば豊かになれる

 「為すべきこと」の為に生きている、という漠然とした思いが次第にハッキリとしてきたのが、中学校1年の時であった。
 きっかけとなったのは、1949(昭和24)年に湯川博士がノーベル物理学賞を取ったこと(これは私に「日本人も結構優秀なのだ」との印象を与えたに過ぎないが)。
 身近な出来事としては、浜松高専出身の機械屋さんが、こともあろうにこの田舎に英語の先生として赴任し、私のクラス担任になったことが大きい。
 やはり物不足の頃だけあって、心に期したのは「物を生み出す機械こそが大切だから、『エンジニア』になろう」ということであった。この英語の先生に胸の内を打ち明けて相談し、大いに賛同を得て嬉しかった。
 当時の私の考えでは、新聞・ラジオを賑わしている殺人や強盗、詐欺事件も全て「食うや食わん」がもとになって、正義が歪められると簡単に考えていたからである。食べる物や着る物、それを造る機械や工場、これらがあれば人間は幸せになれるのだと思っていた。

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父のはかり屋への復帰

奇遇な出会い

 丹波に疎開した後、父だけは、統制組合(兵庫県の商業組合が戦時中に昇格したもの、父はここで専務理事を仰せ付かっていた)の仕事のため単身で神戸に残っていたが、終戦とともに丹波に引き上げてきた。
 そして、村の人々と種々の事業を試みたが、これという手ごたえもなく、買った畑や借りた田んぼを耕して少しのお米や野菜を作っていた。
 しかし6人の子供と祖母を加えて9人家族では、採れるより食べる方が早かった。
 やがて父は、母方の父の紹介を受けて、近衛家の次男で奈良の春日大社の宮司をして居られた宮川忠麻呂さんを助ける形で、春日大社の参事という辞令を戴き働いていた。
 当大社に今も残る父の唯一の功績は、鹿寄せのラッパに、ベートーベンの「田園」で奏でられるホルンのメロディーを取り入れたことぐらいである。
 その2年ほど後の1949(昭和24)年、ふとした事で神戸に行く機会を得、阪神電車の魚崎駅にて、戦前の計量界の知り合いで神戸製鋼の計量担当の人に会い、奇遇を喜んで話しているうちに、県計量協会の阿部会長にも通じることになり、川崎重工に行ってはどうかと誘われたと聞く。

はかり製造の許可

 縁とは不思議なものである。川崎重工の方でも、父に来てもらうことを考えていた矢先であったらしい。
 川鉄が川重から独立するに当たり、当時川鉄の西山弥太郎社長は兵庫にあった計量器部門を譲り受けることを考えていた由。この計量器部門こそ旧高徳衡機の諸設備と人材であったが、製造許可が取れず困っていたとのこと。
 西山弥太郎社長は若い頃に、祖父の高徳純教をよく知っていたらしい。
 採用が決まった後、重役に同伴して通産省に赴いたところ、「高徳さん、貴方がやるのですか」と言われて即座に許可された、と父が自慢顔で語ったのを覚えている。現代のように書類だ、審査だというのではなく、何よりも人と人の信用がものをいった時代であったのだろう。民も官も揃って迎えてくれた形となった計量界に、当時の父は大変誇りを感じていたようでもあった。

父が口にした「天職」

 人生には思いも寄らぬ偶然のことが、後から考えてみると必然のように思えることがある。
 今振り返ってみると、父はこの頃を境にして「天職」という言葉をたびたび口にするようになった気がしている。
 また、いつの時代に造ったのか知らないが、我が家の玄関には、鎌倉彫のごとき大皿に「神の導きを信ずる」とあった。 父の後半の人生が、思いも寄らない形で前半のそれに続いて行ったことが、彼をしてそうさせたのであろう。

西宮の社宅へ

 当時、もう一つ我が家の全員が喜んだことは、丹波の田舎を出て都会の神戸に帰れることであった。
 疎開後、田舎に長くい過ぎて街に帰る目途も立たないままでは、我々子供の将来も思いやられるところであった。こんな環境が父をまた喜ばせたのであろう。
 一方、父は経営者であった生涯の前半に比べ、後半は雇用される側に廻ったのだが、この事を全く気にも留めず、却って金の心配が要らぬことを喜んでいたくらいであった。
 戦後の住宅難の頃であったので、父は差し当たって須磨にある独身寮に入り、丹波からの大所帯が入れる社宅が空くのを待っていた。私が中学生の時である。一家全員が入れる社宅が、西宮に与えられたのはそれから間もなくであった。私は、京都府立福知山高校入学後の3学期に、編入試験を受けて兵庫県立西宮高校に転校した。私にとっても未来が開けてきた感じであった。

2年生は化学

上:実験室、下:化学部活動中の筆者

 3歳年上の長兄は、化学が好きだった。丹波では、自宅の一室を実験室と称して薬品を沢山並べていた。私もそこに忍び込んで、爆薬や発炎剤を作った覚えがある。兄は高校でも化学部に入り仲間達と騒いでいた。化学とはそんなに人気があるものなのか、と他人事ながらも感じていた。
 この頃、兄貴との間に「化学とは新しい物を生み出す技術であり、これこそが人の生活を豊かにするものだ。これに引き換え、物理は物の理論であって、そんなものをいじっていても新しいものは何もできてこない」という議論があったように憶えている。
 そんな雰囲気に引きこまれたのか、私も高2になれば化学をやろうと心に決めていたので、西宮に転校して間もなく「化学部」に入った。
 ところが、部員は私ただ一人であったので、先生から、金属イオンの定性分析をテーマに実験を始めることへの了解を得て、試薬造りから始めた。高1の3学期に丹波の山奥から転校して来たので、学校では田舎弁の差別があり、中学生時代の友達はなし、誇るは少しばかりの化学知識のみであった。
 放課後、白衣に着替えて、実験室の片隅で試薬を計り、メスシリンダーで読み取った蒸留水をフラスコに入れ、試薬を溶解させて0.5規定の溶液を作り、ラベルを貼って戸棚に並べる。こんな作業もやっていると面白いもので、確かに熱中したのであった。周期律表にも驚いた。「最外殻の電子の数か!なるほど、なるほど!」と。

3年生は物理

 3年生になると、理科は物理になった。この物理の先生が、明るく愉快な先生で人気が高く「物理部」には、多くの生徒が集まっていた。
 私も、化学部での定性分析もほぼ完了していたので、そちらに移ることにした。一人よりも大勢の方が楽しかったからである。
 田舎からの転校生であったために言葉や仕草に出てくる「いなかっぺ」への差別もなくなり、打ち解けてきた心安さも手伝ったと思われる。
 このように、理系の化学・物理は遊びのうちに何となく近づいていったし、数学もそれに連れられて興味も湧き得意科目となったが、国語・英語は何としても好きになれなかった。幼い頃より話すのが苦手な上に読むのも苦手、国語ができなければ英語ができるわけがない。

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西宮での高校生活

苦手な英語も克服

 幸いにして、県立西宮高校では2年生、3年生とも担任が英語の先生であり、親切にまた粘り強く「英語は丸覚えなり」と指導して下さった。また家では英語好きの姉がいて、山崎貞の『新々英文解釈研究』や佐々木高政の『英文構成法』が良いので是非最初から最後までマスターするようにと教えてくれたので、それを繰り返し読み、それなりの実力を得たと思っている。
 生来、私は関心のあるもの、面白いものには興じるが、そうでないものには、親が言ったから、先生が言ったからではさっぱりその気にならないところがある。国語・漢文の勉強がそれで、受験の必須科目ゆえに勉強をせねばならぬというだけでは、さっぱり熱が入らない。
 浪人時代、予備校での古文が「源氏物語」でまたその先生が、平安時代の文化・風習にめっぽう明るい方であった。そこで初めて古文が面白くなったことを覚えている。
 そんな訳で、高校時代はついに国語・漢文は苦手のままに終わった。

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文学への傾倒

始まりは幸福論から

 世の中には、幼い頃から読書が好きで暇を見つけては家にある本を片端から読んでいたとか、図書館に通っていたとかといった武勇伝まがいの話がよくある。
 そんな人は作家になったり、学者になる人で、私のごとき凡人は少なくとも中学校までは全くその気がなく、母が少女小説を姉や妹に読んであげていたのを横で聞いていたり、兄から『少年クラブ』記載の探検小説他の話を聞く程度であった。
 そんな自分が小説を読み始めたのは、英語のテキストでB.Russellの『Conquest of Happiness(幸福論)』を読み始めたことによる。
 内容に何か惹かれるものがあり、それほど得意でない英語であったが、ついつい先を読み進んだ。一体「幸福論」とは何ぞや? という問いを持ち、武者小路実篤やアランの『幸福論』とも読み比べたものであった。
 自分自身への主体的な関わりの始まりであったのだろう。

『こゝろ』に感銘を受ける

 順序は前後したかも知れぬが、倉田百三の『愛と認識との出発』『出家とその弟子』も懐かしい。亀井勝一郎も同様。その挙句に、夏目漱石の『行人』『門』『こゝろ』に至った。
 受験勉強の最中ではあったが、私の関心は「生きるの死ぬの」に移っており、勉強どころではなくなっていた。
 中でも漱石自身が、読者に対して、「人の心を知らんと欲する人に、心を知りえたるこの書を勧む」と語りかけたと云われる『こゝろ』は最も感銘が深かった。
 『行人』の主人公の一郎は「孤独なるものよ、汝はわが住居(すまい)なり」とつぶやき、また「死ぬか気が違うか、夫でなければ宗教に入るか。僕の前途には此の三つのものしかない」とも語る。
 この辺りを、我が意を得たりとして読み返していた若き自分が懐かしい。

漱石から芥川へ

 続いて、芥川の『西方の人』や、太宰の『人間失格』を読むうちに、何か明るいものがあるような気がしてきていたのもたしかである。
 そんな経歴の末、ふとしたきっかけがあり、キリスト教会に通うようになった。我が家の伝統的宗教は浄土真宗であり、丹波で世話になった唯一の親戚で隣に在ったお寺も同じく浄土真宗であった。したがって親近感は大いにあったが、当時は本が見当たらず、丹波に行った際にお寺のお経堂に入って親鸞の本も手にしたが、難しくてよく解らなかった。
 一方この頃は、キリスト教は解説書も多くあったし、当時最高裁判所長官の田中耕太郎、東大学長の矢内原忠雄、作家の遠藤周作・椎名麟三といったリーダー的な方々がクリスチャンということも自分に安心感を与えていた。
 そんな頃、お寺の叔母さんには何か悪い気がしたので、丹波に行った時、何かのついでに「近頃自分はこんな勉強をしています」と打ち明けたことがあった。叔母さん曰く「どんな方面でも一緒や、勉強が何よりよ」と優しかった。

兄貴の心遣い

大学生の兄(右)と筆者

 浪人時代の自分には、お金がある訳ではない。参考書代が小説代に化けていった。ついに父は「芳忠には小説を読ませるな」と母や兄姉に言い渡しているとも聞いた。仕方なく図書館にも通ったが、やはり手元において読みたいので、駅前の本屋に“付け”(帳簿に付けてもらっての後払い)で買ったりもした。
 ある時、かなり付けが溜まった気がしていたので、祖母に頼んで払ってもらおうと心に決め、勇気を出して金額を尋ねたところ、残金はゼロだと言う。店員では解らぬと思い、後日奥さんに聞いてみたら、「お兄さんが払われました」とのこと、兄貴の顔が仏に見えた。
 家庭においては、こんな人達に見護られて、私は間もなく教会で洗礼を受ける事となった。

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牧師と教会の人々

私を育ててくださった関西学院の諸先生

大学入学式(計測工学科全員)、筆者は後ろから2列目左から2人目

 私が1955(昭和30)年に洗礼を受けた甲東教会は、卒業した西宮高等学校がある阪急甲東園の近くにあり大抵は自転車で通った。
 また、同じ地域には関西学院大学があり、当時の牧師はここの神学部助教授の小林信雄先生で、新約聖書学が専門であった。抱擁力に満ちた立派な方であり、後には学部長になった。私に聖書の読み方を紐解いてくださった最初の先生であり、今も指導を受けている。この先生の弟子に千田さんという当時の教会に派遣されていた神学生(後に京都産業大学の倫理学の教授になられた)がいて、椎名麟三とドストエフスキーについて熱情をこめて語ってくれた。教会の近くにあった小林先生のお宅にも通ったが、この千田神学生の仁川の下宿にもよくお邪魔したものである。
 1958(昭和33)年に神戸大学に入学した時も、小林先生が神学生共々すき焼きをご馳走して祝ってくれた。そして入学後はもっと大っぴらに関西学院に通うようになった。高校時代の友達で関西学院の学生であった友は、「お前、神戸大学ではなかったのか?」と聞くほどであった。私は暇を見つけては、文学部と神学部の講義を覗いていたのである。
 文学部には後に院長になられた久山康という教授が「学生兄弟団」というグループを指導しており、ここにもよくお世話になった。偉い先生方に囲まれた夏の研修会では、憧れの椎名麟三さんにも会うことができた。 椎名さんはその後1年振りに会ったとき「君少し痩せたかね」と声を掛けて下さったので、僕が「昨今は運命を考えています」と答えると、氏は「それはしんどい」と同情を示し、励まして下さった。
 小林先生を中心とする、これらの方々は文学によって耕された人生において、キリストを人生論的に語ってくれたのであり、それが若かりし自分には、砂漠でのオアシスの如く、しみいるように受け取れたのだと思っている。

「お嫁さんが欲しくなりました」

結婚式 1964(昭和39)年 甲東教会にて

 後に卒業・就職し、千葉の独身寮で日々を送るようになってからも、関西学院の小林信雄先生にはお世話になった。
 1年365日稼動しっぱなし、盆・正月も休み無しの製鉄所では正月出勤はもっぱら独身者の受け持ちであった。その代り「晩は料理で一杯やりましょう」と誘われ、先輩ご夫妻に見送られて寮に帰る道すがら自分も結婚をしようか、と思った。
 1年半振りに西宮に帰省して、早速小林先生を訪ね、「私もお嫁さんが欲しくなりました」と告白。先生は「君のお嫁さんだったら、必死になって探さねば」と言ってくださった。その結果、1964(昭和39)年(東京オリンピックの年)甲東教会で先生ご夫妻と我々は共にバージンロードを歩くことになった。
 若き時代の、先生達のご指導は、実存的な存在としての私の誕生を育み、その流れは今に至っても続いているのである。実に有り難い導きだと言わざるを得ない。

師から教えを受けたボンヘッファー

 浪人の頃から始まった千田神学生との交わりも、退職後まで続いた。残念ながら2002(平成14)年に千田さんが他界されたので終わったが、その後奥さんから沢山の本を頂き現在も大切に読ませてもらっている。
 師から習い始めたのがD・ボンヘッファー(ナチのヒットラー暗殺計画に加担し投獄、処刑されたドイツの牧師兼神学者)であった。昨今はその志を継いで、頂いたこれらの本を読んでいる。
 浪人のころ、千田さんに「高徳君、決して出来心を起すなよ」と言われたことがある。真意は「牧師になるとは言い出すなよ」ということ、なっても良いがその前に「飯が食える職を身に着けておけ」ということであった。ご自身も京都産業大学にて牧会的な仕事はやっておられたが、倫理学の研究と講義はしっかり受け持っておられたと聞く。もとより“物造り”に憧れていた私には全くその気はなかったが、誠に友情に溢れた忠告であったと今もって感謝している。
 もう一つの交わりに神戸大学のYMCAなるものがあり、ここを通して全国的な学生YMCAにも通じていた。

 

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楽しき大学生活

ボート部へ

ボート部の大学対抗戦

 1962(昭和37)年に神戸大学に入学して、まず考えたのは教養課程の1年半は、運動部に入り体を鍛えようということであった。
 そこで山岳部にするか、ボート部か迷った。それでも一度は山岳部に決めかけていた。
 しかし、ちょうどその頃、神戸大学山岳部が北アルプスで遭難事故を起こし、2人が死亡と新聞に出た。それを知った祖母の猛反対にあって、私の決心はぐらついた。幼い頃から可愛がられていたせいか祖母には弱かった。それともう一つ、申し込み書に血液型を書き込む欄があり、それを見た途端にこれはヤバイという気がした。
 高校1年の生物の時間、血液型を調べるから耳たぶから血を採れと言われて、採っている最中に脳貧血を起こし倒れたことがあったからだ。生来私は血が出る話とか、手術の話は苦手なのである。結局、山岳部は断念してボート部へ。
 もちろん一軍の漕ぎ手になれる程の大男では更々ないので、行き着くところは、二軍のコックス、三軍の漕ぎ手であった。その上、神戸には川がないので、大阪に程近い神崎川が練習場であったが、昭和33、34年といえば公害の垂れ流しの頃であったので、この川もお世辞にも水がきれいとは言えなかった。
 それでも住めば都、そんなことに屈してなるものかと、脚力や腹筋を鍛えて、号令を掛け合って頑張ったものであった。皐月晴れの日の夕日が沈むころ、皆で漕ぎ疲れ艇庫に戻る時に味わった疲労感と達成感に、この上なき満足を得ていた。艇が走る水音とスピード感がまた良かった。腹を空かして皆で十三や梅田に繰り出して、豚饅やラーメンを食べたものだ。
 さすがに暑い夏の日の練習は休みで、秋になるとまた始まった。実に楽しい日々であった。体を鍛えることの快感ないし清清しさは、このとき初めて経験した。シーズンの秋になると練習にも力が入り、大学対抗戦が大阪の堂島川であったので、当然そこにも出向き、ボートレースの醍醐味を味わった。

清水正徳先生から哲学を学ぶ

 神戸大学の教養課程には、昔の旧制高等学校のようなところがあり、学生に好きなことを好きなように学べる体制として、指導教官制が置かれていた。
 学生が気に入った先生を指導教官として選び、1年半はその先生と過ごすという自主的な担任制度である。
 私はこれを知った時、ボートで身体を鍛える一方、頭の方は哲学で骨組みを築くことを考えた。いつの時代の、誰の思想か、が判れば類型を辿っていけるような気がしたからである。しかも関西学院の先生達とは反対のマルクス系の哲学が良いと考え、先輩の話を聞くうちに、文学部の清水正徳(まさのり)という哲学の先生が大いに気に入って、すぐに申し込んだ。ヘーゲルが専門で東北大から武市健人(たけちたてひと)と共に神戸に来た先生であり、宇野弘蔵(こうぞう)にも明るい人であった。
 講義はギリシャ哲学から始まりカント・ヘーゲルに及んだが、ゼミの方ではサルトル・カミュの話が主であった。当時構内にあった、進駐軍の払い下げのカマボコ型の部屋で、500円のすき焼きパーティを催して語り合ったものである。

女性を交えての読書会

 神戸大学の教養課程では、今までよりも一段と広い世界に飛び込んだような気がして、非常に面白かったが、メンバーは、となると経済や経営学部の男が主で、女子がいない。
 パーッと明るい雰囲気も欲しいので、友と相談し先生の了解も得て「古典を読もう」というチラシを作り配布、『狭き門』『若きウェルテルの悩み』等を読みましょうと誘った。
 そうしたら文学部、教育学部からたくさんの女子学生が来てくれて、先生も大喜び。先生の解説を挟んで楽しいひと時が持てたし、この読書会は長続きもした。
 こんな事があって、教養過程の1年半はあっという間に過ぎてしまった。
 清水正徳先生とは、卒業後も何度か会っている。私が川鉄を退職後、先生と電話で話をし「最近はキルケゴールを読み直したく思っている」と話すと、先生は電話の向こうで、「近頃は随分読みやすくなっているよ」と励ましてくださった。

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国立大初の「計測工学科」に進む

科学は計測に始まる

 「計測工学科」は、国立大学に初めて作られた計測の学科であり、私は第1回生であった。しかし「計測」自体がまだよく知られていなかったために、“測量が専門なのですか?”と聞かれることがあった。川鉄計量器工場に勤めていた父は、元来が「はかり屋」であったが、社内での「計量管理委員会」にも連なっていたので、これからの学問だとして非常に喜んでくれた。
 1年半の教養課程終了後、専門の授業が始まって間もない頃、「工業計測」の教科書の冒頭で、科学は「科」“禾(か)(稲・麦などの穀物の総称)”を“斗(容量の単位)”る、学問である、という言葉と出会い、西洋にもJ・トムソン(英国)による“科学は計測に始まる”という言葉があると知って感激を覚えたものである。
 科の中身は、1講座が精密機械系、2講座が電子計測、3講座が私の属していた応用物理。主任教授は柴田圭三先生、戦中は海軍で磁気魚雷を研究していたとか、弱磁気の測定が専門であったらしいが、応用物理の範囲には違いない。そして4講座は自動制御となっていた。

紳士扱い

 3年生の終わりが近づいた頃、私以下3人がこの柴田主任教授に呼び出されて、「君達が第1回生であり、先輩から聞く訳にはいかないので何事にも戸惑うだろう」と切り出された。何のことはない、「4年生になって40人の学生がどの講座の何先生を選ぶか、事前の打診と調整をしてくれないか」と頼まれた。
 新設の学科で、あちこちから教授、助教授を集めてきてのスタートであっただけに、主任教授は学生の選択にアンバランスが生じるのを心配しているようだった。その時はじめて、自分たちが一人前の紳士として扱われていることに気づき、大学生とはそのようなものなのだと、大人になった気がしていた。
 皆に聞いて廻って、蓋を開ければ何の事もなく3、4名が先生と話し合うぐらいで事は終わった。
 この事があって以来、急に親しみができてきて、他の連中も柴田主任教授を“おやじ”“おやじ”と呼ぶようになった。当時の安保に対するデモのことも良く理解してくださって、本当に話しやすい先生であった。
 後になって、私の結婚式にも当然主賓としてご列席くださり、「高徳君は何となく人から愛される人間だ」と言われた。そして、翌日の新婚旅行の出発を大阪駅で見送って下さったのには恐縮した。

大学祭で(この頃講座の相談をした)
筆者は左から2番目

大学に来ていた父(左)と筆者

ストレーンゲージの登場

 話は横にそれたが、私は3講座の若林助教授に付いて「酸化被膜の膜厚測定」をテーマに選び、静電容量法を用いた測定でこの研究を手伝った。
ただし、この計測という学問は、応用して役立たせる対象がやたらと広い為(あらゆる分野で使われるので)、石油化学や無機化学をはじめ、土木・建築まで単位を取らされたのには参った。
 今は「不確かさ」であるが、当時は「誤差論」。微小電流の増幅が難しい時代であったので、それなりの本も出ていて回し読みをしたのを覚えている。丁度この頃、1959(昭和34)年に父がアメリカの文献を見て「走行中の列車の重量を貨車毎に即座に計量し、トータルの計算までやってしまうことができるストレーンゲージなるものがある」と驚いていた。これを先生に聞くと、ストレーンゲージには温度特性に問題があり、これが解決されれば利用は早いとのこと、これがきっかけで、父も学校に足を向けるようになった。
 そして、私が川崎製鉄に入社した数年後、1964(昭和39)年には、このストレーンゲージに千葉製鉄所でお目にかかった。驚くべき早さである。

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消えた「計測工学科」−技術の変遷を反映

次々に新しい技術が

計測工学科在学中 大学祭で計測のアピール

 前回に述べたストレーンゲージにも見られるように、1955(昭和30)年から1965(昭和40)年にかけてのわが国の高度成長期には、計測・制御技術の発達速度は特に大きかったような気がする。
 私が卒業研究で手がけていた容量式膜厚計にしても3、4年後には商品化されていた。いろいろな事柄に関し、次々と新しい技術が生まれ、開発され、世の中に出ていき、その分野の在来の固有技術が重宝されなくなり、計測機器も次々安く売り買いされるようになった時代だったように思われる。
 こうなれば、大学の「○○工学科」の設置・変更も柔軟に対応してゆかねばなるまい。電気工学・機械工学……といった並びでなく、時代の要求があって生まれてきた学問であってみれば、その必要性が薄れば消えてゆくしかない。母校の「計測工学科」も、その後は「システム工学科」に変身し、今では「情報知能工学科」になっている。会社にも「計測課」は、もうない。かっての熱管理課・計量整備掛もなくなって、今は「制御技術」となっている。  「熱管理」もその後、「省エネ」になり、「環境」から「温暖化防止」へと変わっていった。

計測機器メーカーの成長

 この時代の流れに身を置いて、虚心坦懐にこの現象を見るならば、次に見えてくることは、計測機器メーカーの成長である。かつては「こんな会社は……」と思っていたところが今は立派になっている。JCSSの認証も取っている。放っておけば、何を持ってくるか判らない業者もいなくなった。
 次には情報の流れが盛んなことである。もう20年も前になるだろうか、「計測機器等は電話帳をみれば何でも買える」と言われた時代があった。昨今は情報量が遥かに上回るインターネットが出現している。これに繋げば何事も即座に解かるのだから、人間の経験や記憶ははたしてどんな役目を持つのだろうかとも思ってしまう。
 3番目にはやはり、標準物質や計量のトレーサビリティの普及ないしは日常化であろう。ISO/IEC17025(試験所及び校正機関の能力に関する一般要求事項)も整えられ、MRA(相互承認協定)もOIML(国際法定計量機関)も根づいて地球全域を覆っている感がある。これらによって、かつての計測屋が企業には要らなくなった。良い時代になったものだとつくづく思う。

計量士は残るべし

 さすれば、計量士は要らないかとなると、「それは間違いだ」と言わねばならない。産業社会では計測・計量という行為は不確かさという補正項付きで、必ず必要であり、なくてはならないものである。プラントを知り、プロセスを見つめている人間、問題を見つけて定量化できる人間は今も必要であり、それが企業の計量士の職務だと、私は考えている。
 質量測定では浮力が付きまとう、温度測定では放射率誤差、挿入深度誤差がある、流量では層流か乱流か、圧力でも絶対圧か相対圧かというように、環境によりまるで異なった数値が出てくる。自然はそう簡単にはその真理を人間に教えてはくれない。ここに計測の醍醐味を味わわせてくれる計量士の仕事がある。より正確に測定することにより、変化する対象を一層明確に捉えることができる。
 このようにして問題の定量化ができれば制御技術も生まれてくるというものである。問題は何か、いかにすればコストダウンに結び付けられるのか、品質とはどのようにかかわっているのだろうか。全てが計測機器の問題とは言わないが、機器の使い方を含めた定量化技術を持つこと、第三者にわからしめる方法を持つことが重要なのである。
 もっと現代的な言葉では、プロセス屋というのかもしれない。そのような仕事は今も残っているし、これからも出てくるであろう。計量値の有効利用(計量して得た値は繰り返し、重ねて利用されなければならない)、これは計量管理の第一歩である。
 今日の工場では、専門の計測屋は要らないかもしれないが、計量管理は制御技術と平行して存続しているし、今後もせねばならないと考える。

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川崎製鉄(現JFEスチール)へ

夏休みの工場実習は千葉へ

川崎製鉄での実習 筆者は後列右から4番目

 私が通っていた神戸大学工学部では、3年生の夏休みに工場実習が行われていた。どこでもいいから好きなところを選んで、先生に推薦状を書いてもらうというシステムであった。
 父に相談すると「千葉に行け」と一言で返ってきた。父の勤めは、川崎製鉄の中でも計測機器を使う製鉄所ではなく、計量器を作る計量器工場であったが、当然の事ながら川鉄の各製鉄所・工場が最大のお得意さんであったために、そこに設置されている計測機器の事情には精通していた。また、全社で構成された計量管理組織に名を連ねていた事もあり、知人も多かったのだろう。
 その父が、千葉にはありとあらゆる新しい計測器が揃っていると言い、おまけに良く知っている人にお願いをしておくので歓迎してもらえるともいう。

全国から実習生が

 1961(昭和36)年当時の川崎製鉄は、国内でも初めての「臨海一貫製鉄所」を千葉に建設している途中であったから、最も近代的な計量・計測設備が導入されていたのであった。
 7月始めに約3週間の実習目的で千葉に行ってみると、他大学の4年生と共に過ごすことになっていた。この人たちは皆就職を川鉄に決めている人達で、就職を決めていない私が入っているのは何だか気が引けたが、あまり気にせず、仲間に入れてもらった。この人達にいろいろ教えてもらい、大いに刺激を得た。特に夕食後、北大から九大に至るから各地から集まった人達による会社の評価や各大学の実態の話を非常に興味深く拝聴したものであった。
 一方、職場に行けば、父の知り合いが多く、中には家庭にて夕食をご馳走してくれる人もいて、恐縮した。
 1961(昭和36)年の川鉄・千葉には、電子管式自動平衡計器を始め、300tまで計ることのできるハカリ、1600℃を計る温度計、調節計でのフィードバック制御等、学校では見かけない装置があり、目を輝かせたものであった。
 結局、この3週間の体験とその驚きが “この世界が最も面白い”という印象となり、卒業後もここに就職することにした。

就職決定

 私が大学を卒業する頃は、どこの企業も引く手あまたで、希望するところはどこでも行けた。
 しかし、我が神戸大学の計測工学科は、柴田圭三主任教授の方針で「一社一名」となっていた。創設後初めての卒業生を送り出すので、出来る限り多くの企業に行って欲しいということであった。同じ川鉄志望の友達が1人いたが、彼とは話し合って席を譲ってもらった。
 1962(昭和37)年4月1日、入社式は川崎製鉄(株)神戸本社で行われた。壇上に上がった西山弥太郎社長が、一同を見渡して驚いた表情になり、脇の人事部長に「ようけやな! 何人取ったんだ」と尋ねた。後にも先にも川鉄で大卒の採用人数がこれほど多かったのは、この年だけと聞く。 後々には「石を投げれば37(昭和37年入社)に当たる」と言われたものだ。しかし我々にとっては、どこに行っても「同期の桜」がいて心強かったし、何をするにも同士がいて重宝であった。
 この頃は、私にとっては最も恵まれた日々であったと言えよう。

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千葉製鉄所へ

千葉の熱管理課へ

 就職を決める時は好景気であったが、入社してみると不況になっていて、本社葺合(ふきあい)工場の平炉が休止したため、製鋼の現場実習は西宮、知多での実施となっていた。安全靴とヘルメット姿に若干の誇りを感じながら、高熱、強筋の実習に励んだものであった。
 当時は、温度計もカーボン分析も不安定であったり、長時間を要したりしたものだから、電気炉での溶鋼の温度は丸棒の溶け具合で予測するとか、汲み取った湯(溶鋼)から出る火花の飛び方でC%を看るベテランにも会えた。
 2カ月の実習を終えて後、「千葉製鉄所管理部熱管理課に勤務を命ず」という辞令をもらい、「特急つばめ」で東京に向かった。
 中学生の頃、工学部を志して以来、やっとその念願が叶っての旅立ちである。
 大阪駅までは母が見送ってくれた。「同胞のため、世界の人類のために働くのだ、人のために役立つ事こそがわが使命なのだ」と、胸に燃えるものを感じていた。

5人の同期の仲間

 石炭をはじめ多量のエネルギーを消費する製鉄所では、操業上で熱や燃料を上手くコントロールする技術が必須であり、そのために熱管理課が置かれていた。それらをコントロールするために、様々な温度計・流量計・圧力計等の計測・計量機器が用いられていた。
 これらの調査研究から保全整備に当たる所は、計量掛や計量整備掛と呼ばれ、約350名の集団が在籍していた。2年前に工場実習でお世話になったところでもあり、その時同じ旅館で過ごした方も1年先輩として在籍しており、いろいろな場面で新入社員の私を指導してくれた。
 同期では5人が熱管理課に配属され、寮も同じであったので、帰ってからもあの部屋この部屋で語り合い、楽しい毎日であった。給料日の週末になどにはホテルのレストランで食事を楽しみ、お互いの身近な出来事を話し合った。見合いの話やら、寮を出て住む家の相談やらも話に出た。
 これらのことは、当時有益であったし、今思い出しても懐かしい。

人生の目的は人と交わること

 余話となるが、私は川鉄を退職し、人生の大きな転換期ともなったこの10余年をも含めて、昨今は人と人の出会いと、お互いの気遣いについて考えている。
 何も分からない一人の人間が、出会いによって、いろいろなところに導かれ、教えられる。その結果は、当初本人が思っていたところとは全く異なっているところもあるが、やはりこちらの方が良かったのだと思っている。
 私は、出会った人には出来る限り丁寧に接しているつもりでやってきたが、後から考えて充分でなかった事を悔いることも多い。
 従って全体としては「皆さんのお陰です」との感謝の念に終わっていて、実に快い、素晴らしい人生であると実感している。
 一般的には、「人生の目的とか、希望とは」と聞かれると、やれ「メーカーに就職する」とか「物造り」とか生意気な事を口にしてきた。しかし昨今では、そんなことは一つの方向であって、目的とは「人と交わること」とか「絆を保つこと、関係をつけること」なのではなかろうか、と考えるにいたっている。
 人間はそれほど先は見えないもの。それよりも今日、明日を充分に思い煩うことが大切ではないだろうか。そんな事を考える昨今である。

R熱電対の技術習得

現場に配属される

 川崎製鉄(株)に就職して最初の職場は、計量整備掛であった。
 最初課長から、「高徳君は計量整備掛に行ってもらう」と聞いたときは一瞬がっかりした。新設備の計装設計に憧れていたからである。
 けれども、一年前の実習のとき親切に教えて下さった人が、「いや始めは現場で人と計測機器に接するのが一番の近道だよ。あなたにとってこれ程恵まれた仕事の与えられ方はないよ」と忠告してくれた。
 その後20年・30年続いた大きな意味での計量管理の仕事のスタートとしては、良い処に回してもらえたと、今でも当時の課長に感謝している。保全・整備の現場で直に計測機器にさわれたこと、大学を出たばっかりの青二才の私に作業長以下の現場の人達が実に親切に教え、また従ってくれたからである。

あれもこれもが勉強の毎日

 受け持ちの主設備は、製鋼関連の平炉工場と建設途上の転炉で、これらに酸素を送る酸素工場と、副原料である石灰工場が付いていた。1000ループの計測機器があっただろうか。交替勤も入れて30名位の部隊を受け持つ技師となったので、正直言って初めは解らぬ事が多く、作業長や班長には助けてもらった。
 とはいっても技師である以上、私も毎朝1時間は早く出かけて取扱説明書等を勉強したものである。土日も休日もなく働き、1〜2カ月に一日くらい休んだであろうか。とにかく、製鉄所というのは365日溶鉱炉から溶銑が出っ放しで、全ての設備が止まるということがない。何かといえば若者が使われるのだから、仕方がなかった。正月も出かけて行くと、そこは人間社会、餅が焼けたから食べに来いとか、汁粉を作ったので寄って行け、と誘われたものである。

最初の仕事は溶鋼の温度測定

 私が就任した当初、溶鋼の温度測定にはカーボンスリーブに保護された0.5mmΦのR熱電対が用いられていた。重くて、慣れない私では持ち上げるのがやっとで、それを炉の溶鋼の中に浸漬するのは到底無理な話であった。また、これはCOガスによる汚染によって熱電対が劣化し起電力が落ちてくるので、3回使えば我々の仲間が先端を切り取っていた。重いし、手間がかかるし、測温結果はバラツキがあるなどの難点があったが、当時では最新の技術に違いはなかった。
 当時は、このR熱電対にしても、入荷時には必ず検査を必要とした。日本にはメーカーがなく、輸入業者も信用がいま一つで、放っておけば何が入ってくるか解らない時代であった。
 この入荷検査は、学振(日本学術振興会)製鋼第19委員会第2分科会推奨のパラジウム線溶融法によるもので、プラス・マイナスの素線の先にパラジウム線を付け電気炉の中心部に降ろして溶融させ、その時の温度を読み取るというもの。細心の注意を要する難しい作業である。私はまずこのテクニックを体得し、製鋼担当の技師として一人前になった気がしていた。

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消耗型熱電対の導入

検定の新技術を開発

 計量整備掛に就いて1年も経っただろうか、次は消耗型熱電対が入ってきた。これは従来のカーボンスリーブに換えてクラフト紙を硬く巻いて断熱性を持たせ、補償導線と先端のコネクターを保護している。中には0.1 mmΦのR熱電対が仕込まれており、全体的に軽く、先端のみを使い捨てるタイプであった。
 これを5〜6社が相次いで使って欲しいと持ち込んできた。この新型熱電対に対して、しかるべきテストを行ない、その中の1社に決めるのはまた難しいことであった。素線はどこ製か、アニーリングはされているのか、から始まって、試用結果に至るまで、新入社員の私にとっては結構な負担であった。受け入れ検査にしても、従来の0.5mmΦの検査はこれまで通りの担当がやっていたが、新しい消耗型の0.1mmΦであれば、今までと同じ手法では検査できない。そこで、まず検査に使う0.1mmΦでのパラジュウムを日本のメーカーに作ってもらった。そして、私が自ら挑戦し、在来の技術を持っている担当と意見を交わし、失敗を繰り返しながらも、この0.1mmΦでのパラジュウム検定を成功させたものである。

1社に絞り込む

 一つのツールであるセンサーを取り替えようとすると、その原理が同じでも使い勝手が異なれば導入はできない。オペレーターにも試用をお願いして、どんどん使ってもらった。紙スリーブが太くて溶鋼の中で浮力が生じて使いづらいというのもあった。この意見を各社に伝えると、応答が速い社と何の返事も来ない社の2つに分かれた。後者はダメ……。先端部を細く仕上げて浮力を少なくしたメーカーが有利となった。
 次には、熱電対素線のメーカーとの繋がり、これが最重要であるので、ルートと線引き処理方法を調査した。他に新しいスリーブを装着すれば常温を指し「ピー」と音が出るのも現われた。保守性に優れている。このようにしてメーカーとユーザーが情報を交わし、お互いが工夫をこらしていくところに新しい技術が生まれ、製品が誕生する。
 メーカーの言うことは信用ならない頃であったから、その辺の情報確認を含めてほぼ1年はかかったであろうか。ようやく1社に絞り込んで採用が決まった。

思わぬメリット

 この消耗型熱電対の何よりのメリットは、溶鋼に浸漬するとすぐ測温され、熱電対は溶融し消滅してしまうので熱電対の汚染がないことであった。さらに思いもよらなかったメリットは、浸漬したところの温度が測定され、今までのようにオペレータが高いところ、低いところを選ぶことができなくなったことである(湯面の上面は高く、鍋のレンガ際は低かったので、それまでは、ベテランのオペレータは都合の良いところに温度計の先端を持っていったこともあった)。測定すべきは溶鋼の中央部の代表温度で、偏った箇所での温度ではないので、これは大きなメリットであった。
 この仕事は、計量屋とは自分の部下だけでなく、オペレーターとも仲良くしてあらゆる方面から情報を集めることが大切だと痛感させられる機会でもあった。

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ドイツ人と計測技術の導入

可動線輪の調節計に驚く

 計量整備掛としてのもう一つのテーマに、転炉廃熱ボイラーの計装工事があった。
 オーストリアのシーメンス社から調整指導に2人の技術者が来て、いろいろと教えてくれた。大学時代のドイツ語を思い出しながら、習ったものだ。
 わが国では多くのものが電子化している時に、可動線輪の計器シリーズで、調節計までもが可動線輪であるのには驚いた。発信器にはリングバランスやベローズも使われていて、どれもが大きくて、堅牢にできているのに感心した。
 その他端子台に及ぶまで、誰でも容易に触れるように工夫されていて、ドイツ独特の“こだわった”ところでの技術レベルの高さに敬服したものであった。

楽しい交わり

 彼らは、技術者としての確固たるプライドと自信を持っていて、横から我々が提案してもガンとして受け付けないところがあった。そればかりか「技術者たるものは、かくあるべきだ」と我々に諭してくれた。
 そんな彼らは、製鉄所から少し離れた丘の上にある外人専用の施設に宿泊していた。夕方になると一緒に食事をしようと誘うのでついて行き、食事を楽しんでいた。美味しいステーキも出て、何とも良い気分であったが、何事も度重なると何とやらで、ある日、厚生課から電話があり「一緒についてくる社員は時々にして欲しい」との由。
 この据付が終わりに近づいた頃、仲良くなった2人の技師を我が家に招いて、食事を差し上げようと考え、家内の賛成を得た。私も買い物や部屋の整理に協力し、その日となった。2人とも背も高いし、一人は太ってもいたので、我が家が一段と狭く感じられた。室内の置物や家内の手料理を喜んでもらったのは良かったが、何分6畳、4畳半の狭い家、彼らが押入れの襖を指して「あの向こうが寝室か?」と尋ねたのには赤面した。

導圧菅の凍結

 廃熱ボイラーとは、転炉の溶銑に酸素を吹き込む時に発生する高温ガスを燃料とするボイラーである。急激な発熱に応じてレベル制御、給水制御をせねばならず、制御系としては厄介なものであった。従って、転炉共々オーストリアからの輸入であったのだ。この転炉が立ち上がった初めての冬、突然夜中に制御不能で運転が止まるという事故が起こった。夜中に呼び出され駆け付けたが、原因が判らないので対処もできず。1時間経ち2時間経ち、300tの溶鋼をどうするか、周りから責められ急がされ……ダメだと思いつつも薬缶に湯を沸かして、屋外に設置された圧力計の発信器に走った。導圧菅に湯をかけたのである。途端に配管中を蒸気が流れる音を聞いた時の喜び。思わず「やった!」と叫んだ。蒸気本管から圧力を取り出して発信器にいたる導圧配管が、急に襲ってきた寒波のために凍結していたのである。後から聞いたのであるが、建設工事の最中、計装配管の保温まで気が回らなかったのだそうだ。

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仲間達との交わり

「私とあなた」の関係

 1962(昭和37)年頃の製鉄所では、まだ古い職制で、作業長制度は導入されていなかった。現業では、トップが職長、次いで組長、伍長、手(しゅ)、助手、平となっていた。私の属していた製鋼地区では伍長以下50人程の組織であったが、特に私の仕事を受け持って、手伝ってくれる人達は一人の手、以下4人の助手を含めて合計20人程であった。
 彼らは私に、配管中のオリフィスの前後の差圧から流量を検出する発信機の検査方法や配管中のエアーを抜くコツ、沈鐘式微圧計の検査手順等を教えてくれた。私は各メーカーの新しい取扱説明書を猛烈に勉強し、皆さんに教えた。
 私は、入社前後の頃より、「仕事は天職と心得、裏表なく人に交わって行けば必ずや道は開けるものだ」と心に決めていた。従って人間関係はすべて「私とあなた」が基本となるとも思っていたし、職場でもこれを貫こうと決意していたので、私からも何事でも相談したし、仲間からもいろいろな相談を受けた。

自発的勉強会を始める

 花見、送別会、歓迎会等、入社当時は酒もあまり強くはなかったが、皆と楽しく飲んだ。独身寮にいた頃は、Yさんというわがグループのトップ(ただ一人の手(しゅ)の人)が「自宅に寄って食事をしましょう」とよく誘ってくれ、他のチョンガーの連中とお酒と食事をいただいた。そんなある夜、「高徳さんは、何の為に仕事をしているのか」と尋ねられたので、私は「金を儲ける為でない、隣人の為だ」と答えたら、「高徳さんは大学は出ているけれども、中学生みたいなことを考えている」と笑われた。どこか抜けている人だとでも思われたのか。私は「幼稚なところが取り柄なのだ」とも付け加えた。
 ある人の提案で、勉強をしようということになった。私が先生を引き受けて、早く仕事を片付けて、計器盤の裏でも良いからやりましょうと話が決まった。コロナ社の計量管理技術双書の『自動制御』や『計測用電子回路』等も教科書となった。当時、自動制御のフィードバックの調節計にPIDというのが出てきていたので、比例・積分・微分の概念も必要だと思い、微分や積分の話もした。トランジスターが計器の中にも入ってきたので3極管に<RUBY CHAR="倣","なら">ってNPNでのエミッタ、ベース、コレクタの動作も話した。それなりに好評であったが、生徒さんは教科書を作業服の下に隠し持っての参加であった。教育が公には認められていなかったからである。
 職場での教育が全社的に実施され始めたのは、それから5〜6年後であっただろうか。その時は、転勤先の神戸からその教科書つくりのプロジェクトチームに参加した。
 この教育の話は私から言い出したものではなく、彼らから出てきた事に意義があり、私は、そのような人間関係を築くことができたことを今も嬉しく思っている。

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電子計算機による制御

計測の目的は制御にあり

 昭和30年代の製鉄業は、平炉での酸素使用(高炉から出てくる銑鉄は炭素が多いので、それを酸素で脱炭する)が拡がり、後に転炉へと換わっていき、さらにその転炉が大型化・高速化していった時代であった。
 1962(昭和37)年に私が千葉製鉄所の製鋼地区計測担当になった時には、もちろん50tの平炉は6基が健在でフルに操業をしていたが、新しく150t転炉が2基設置され、注目のうちに運転を始めていた。精錬時間は、当初は30分弱であったろうか。
 転炉とは、高炉からの溶銑の炭素を取ると共に次工程に適した温度にするのが目的の炉である。当然のことながら、この精錬時間を短くしたい。温度が合わず、成分が外れたことによる再精錬も無くし、生産性を上げたい。そのためには、コンピューターを使うべきだ、との提案がなされた。今から思えば驚くばかりの小さなもの、不便なものだったが、当時は、大きな関心と興味を持って見られていた。もちろん静的モデル式でスタートした、物質収支と熱収支を基本とするモデル式で、使う計量値は溶銑温度・成分、スクラップ重量など。これらの値から、目的とする出鋼温度・成分を得るために使用する酸素ガス流量と副原料の投入量を計算する。
 計算結果通りに操作をして的中するか否か、グラフと計算尺を使って人間が行う制御との競争であった。外れた時は、式のあちこちの係数を変えてまた挑戦。的中率は次第に上がっていったのであった。

制御が次の計測を要求する

 後になって、投げ込み型温度計が現れ、精錬途中の温度と共に溶鋼の一部を採取してその凝固温度より炭素含有率が計測される「カーボンデターミネータ」が用いられるようになった。これまでの静的モデルに換わって動的モデルが採用されるようになり、的中率はさらに上がっていった。
 さらに、温度を測ると同時に溶鋼をサンプリングして分析装置まで届ける、文字通りのオンライン分析(サブランス)が取り入れられると、的中率は飛躍的に向上した。
この頃のセンサーの開発とその利用装置の適用には、特に目を見開くものがあった。

通産省の通達の永遠性

 1950(昭和25)年に通商産業省より出された『計量管理』に関する通達には、当時のことゆえに「制御」という言葉こそ使われてはいなかったが、「測定結果を生かして……合理化を進めてゆく……」という内容は、制御と何ら変らない。計測と情報伝達の早さと制御技術、この3つが一体となって進められるところに合理化と品質向上が達成されるのだと、この頃より感じ始めていた。先述の通達は単に時を得たものとしてのみでなく、普遍性、いや永遠性をも持ったものとも受け取られる。
 これに反して、昨今の計量法に関する経済産業省の姿勢は、1950(昭和25)年頃の産業育成・ものづくりに熱意が込められていた姿は微塵もなく、ただ消費者志向のみに走っている感があり残念に思われてならない。
 先の通達に関しては後日紹介したいが、私の中ではこの『計量管理』が生き続けている。

驚異の電算機技術

 登場した計算機は、確か主記憶容量が16kw(キロワード、1ワードは8ビット)、補助記憶容量が256kwであったと記憶している。
 その後これらのプロセス用コンピユーターは32kw、64kwとレベルアップしていったが、いずれも機械語でプログラムを作り、パンチカードを用いて入力するものであった。
 その後は、コンピューターのプログラム言語にフォートランが出てきて、何事もずいぶん楽にできるようになった。昨今のウィンドウズのエクセルの計算能力や、小さくて大容量のH/W(ハードウェア)は、当時からすればまさに夢の世界である。
 私もその後、神戸の本社工場に帰って計量管理の本筋を歩むことになり、自らデータロガーやコンピューターを用いたシステム開発に携わったが、この当時の千葉でのプロセス用コンピューターとの初めての出会いは、今も忘れることができない。

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計量士の誕生

副工場長の命令

 1965(昭和40)年千葉から郷里の神戸にある葺合工場への転勤は、私にとって計量士の第一歩を踏み出させる結果となった。父と旧高徳衡機を既知の尾上副工場長が、当時の兵庫県計量協会の管理部会長をしておられたから堪らない。廊下で出会い頭「君は計量士を受けろ」とやられた。
 千葉時代にも、課内にはたくさんの計量士がいて、「君もその内に受けるが良い」とは言われていた。しかし、当時の会社の制度では会社はお金を一銭も出さず、合格して計量士登録をしても会費すら戴けない、全てが自己負担であり“それぐらいの事はすべて給料の内”とされていたようである。しかし、若くて新婚間もない私にしてみれば大事であった。講習会の費用は到底出して貰えないので、先輩に問題集を借りて自習、運良く合格はしたものの、会費の負担を考えてまた躊躇していると、またもや副工場長「登録はしたか」と問われた。心安く声をかけて下さらずとも良いのに!かくして計量士誕生となったのである。
 やはり、郷里に帰って来たればこそというべきか。

2分科会(高温測定)

 この副工場長、本当に気さくな方であったが、今から考えると「あの高徳の息子だから、自分の所にいる間に計量士にしておかないと」と思われたのかも知れない、そう思えばありがたい親心である。
 数年後には、この副工場長の名代で、学振第2分科会(注1)に出席する事になった。当時は計測研からは高田さんが、横河からは小川さんが、各製鉄会社からは熱電対の専門家が、神田の学士会館に集まり議論を戦わせておられる姿に接して私もファイトを燃やしたものであった。この葺合工場では、K熱電対の還元性雰囲気での劣化についても研究報告を行った。熱電対の表面が劣化し、これによって寄生熱起電力が発生するという発生のメカニズムも教えて頂いた。
 それから約40年経って日東製粉(株)(現日東富士製粉(株))に計量士として勤めるようになった後、この東京工場が通産大臣賞を戴いた。このような時こそと思い立って、老工場長を神戸の御影の自宅に訪ねて、昔お世話になったお礼を申し上げた。計量士の試験の話をすると「そんなことがあったかなぁ」と笑っておられた。
(注1)産業育成のために設けられていた「日本学術振興会製鋼第19委員会」で、第1分科会は分析、第2分科会が「高温測定」で『パラジウム線溶融法による高温検定』は有名である。当時東大の菅野猛先生が主査をしておられた。

面接での思い出

 もう一つ、計量士の試験に関して書き留めておかねばならない事がある。
 筆記試験が終わり、次に面接試験があるから出頭するようにとの通知がきた。書くことは何とか書いて合格したようだが、面接となると小さい頃から話すのに自信がなかったので、最大の苦手だという気がしてきて、思案にくれた。
 当日は早くから出向いて行き、通産省の階段に腰をかけ、あの分厚い計量法をあちこち紐解いていたのを思い出す。いよいよ呼び出された時は正に緊張も絶頂に達していた。何を答えたのか全く記憶にない。そして終わりに近づいたとき、一人の試験官に「お父さんはお元気ですか」と聞かれびっくりした。すっかり気が抜けてしまい、その方のお名前を聞くのも忘れて、後から“しまった”と思ったのであった。初めにそれを聞いて下さったら良かったのに!
 家に帰って、父に聞いたら「高田さんだろう」との事であった。

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学振19委員会と計測部会

学振の人達

 神田の学士会館には、西宮工場への転勤後も続けて行く事になった。この西宮工場にはステンレスの電気炉がありR熱電対では測定出来ない1650℃以上の測温の必要に迫られていたので、タングステンレニュウム熱電対の測定実験を行って報告した。この熱電対は1900℃まで測れたのであったが常温での酸化があり、起電力が不安定であるという欠点があった。そのようなことに関しても、困ったことがあると、皆さんが聞いてくださり、コメントも下さった。
 八幡の大町さん、NKの中沢さん、横河電機の小川さんたちも相談に加わって下さり、有意義な一時であった。大きくは温度測定の精度を上げていくことが何よりも大切で、これに反するようなものは報告し、皆で対策をこうじていた。
 当時はこの学振が定めたパラジュウム検定にて1552℃が定められていたが、国家標準としてのものはなく、トレーサビリティーの言葉すらなかった時代であるから、高温測定に関する技術の拠りどころは、やはりこの19委員会(日本学術振興会製鋼第19委員会)であった。
 R熱伝対の本体の問題が片付いた後は補償導線が問題になり、せっかく熱電対が良くなったと言っても補償導線が粗悪であっては何もならないと、菅野先生が取り上げて下った。参加者が各々自社にて、酢酸ナトリウムの溶融点でのテストを実施しようと決めて、A社、B社、C社の補償導線をテストして、その結果を持ち寄ったものである。

計測部会での研究活動

 鉄鋼各社の間には、この19委員会の他に共同研究会計測部会というものがあり、各社の計測担当者が集まって調査・研究の成果を発表していた。
 もちろん各社共企業秘密はあったが、19委員会と同様に、比較的オープンに成果を発表し議論を戦わしていた。いずれも1日目が終われば懇親会が催され、皆で和気あいあいと語り合ったものである。勉強になったし、刺激も得られて楽しかった。
 計測・計量とは、もともとこのような横の情報交換が非常に有益な技術分野ではないだろうか。計測・計量屋は、企業内でも「情報屋」の異名を持っていたような気がする。
 昔から新しい技術や見慣れない現象には目を留めて、それを数値化できないか、事象を数値に変換し、それらを制御に応用できないかなどといろいろと問いたくなるのが人間である。
 最近でもカルマン渦流、ピエゾ効果、圧電素子、音叉……いろいろと物理現象が現れ測定器に用いられるから一層興味を持つのである。
 特に他社において、何を測って、どのように制御しているか、その結果がどうであるかというのも興味深い。そういった事象に関する関心が、好奇心が、我々計測屋の命のようなものではないだろうか。

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初めての計量管理委員会

計量管理委員会への初デビュー

1968(昭和43)年頃は、葺合工場は伝統ある本社工場であり、下山田工場長以下計量管理を重要視しているスタッフが揃っていた。
 そのような中での6月の計量強調月間は、工場入り口の立て看板から始まって全てのPR行事にも気が使われていて、「徹底して」という雰囲気が感じられた。そして開かれた計量管理委員会に担当部門の若手技師として初デビュー、居並ぶ部課長を前にした工場長の重々しい挨拶を、私も緊張して聞いていた

 この席上で私は、命じられ設置したスリッターライン(鋼板を縦状に切り分けて行く装置)の稼働率計の報告を行った。その運転担当部課に別の問題が生じて少し間が空いていたのを、私は知っていたが、何の気なしに「いまだ使われていません」と言ってしまった。工場長はそれを聞いて「使われていないとはどういうことか!」と雷を落とされたものだからたまらない。“しまった”と思えど後の祭り。担当課長は立ち上がり真っ青、部長が弁護にまわる……。終わって部屋に帰って来てからが、また大変であった。

共通の尺度については全体で

(初めての計量管理委員会で、工場長に雷を落とされた後)運転部門の部、課長が次々と部屋に訪れ「先に言っておいてくれれば」とか「どうしてあそこまで」とかと、我が課長が攻められていた。
 私は工場長とは偉いものだ! とつくづく思った。千葉育ちの自分には想像できなかった。千葉は広大な敷地内に新規拡大中の組織でもあり、管理も大ざっぱであった。そのような経験の中での反省として、この計量管理委員会委員長の威力は最も有効に使わねばいけないという事であった。常に前向き・生産的でなければならない当委員会に多少とも「非難的なもの」が生じることは気を付けるべし。この教訓は、現在の日東富士製粉(株)の計量管理委員会の運営にも生かしている。
 計量管理を実施する組織として「計量管理委員会」を置くならば当然のこととして、委員長は工場長となり、委員会には全部課長が出席となる(ただし事務系は除く)。そして主な議題は、製品の歩留まり・品質・生産性・環境保全・安全等に関して計量・計測に問題は無いか、精度は充分か、どのような成果が考えられるか、に関して報告しまた指示を仰ぐ。
 私の経験では、工場が大きい場合は部単位、部門別にわかれて行ったこともあったが、やっぱり一同に会して計量・計測という共通の尺度について話し合うことは必要なことであると考えている。
 最近ならば、ISOのこと、JIS化の問題などもあろう。計量管理規程についても常に見直したり、項目の新設や削除、文言の差し替えも行っていないと、規程そのものが陳腐化してしまう恐れもあろう。
 この章では、若かりし頃の、驚きや恥ずかしい次第の話にそえて、適正計量管理事業所へのいまだに残っている未練を書いた。

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計測しなくても良くなった話

測り屋大繁盛

現場から、これを計って欲しい、何とか安いはかりは無いのか、簡単に量れないか……というたぐいの話はどこでもよくある。計測機器を見つけて見積もりを取ってあげると話はそこまで。メリットが出ないから買えないと言う。こちらも、そういうことを見越して、見積りを作ってやることもあるが、お互いに無駄なことである。
 工場の精整ラインに鋼板を定尺に切っていくシェアーという機械があった。1分間に10枚前後であったろうか、刃自体が流れるごとく動きながら切ってゆくのでフライングシェアーといっていた。その検査担当から「切った板に斜(はす)切り」が出るという。斜めになっているので板の対角線を測ると長さが異なるという。切り出した板をサンプリングしてチェックするのに手間がかかる、簡単に測定する方法は無いのか、というものだ。当時は自主検査ではなく、運転と検査が分かれていてお互いが競っていたころである。

見抜く力

(検査担当に、切り出した鉄板から「ハス切り」をチェックする測定方法を聞かれたが、)しかし、そのような特殊な測長機は無いし、動いているものを素早く測るのはなかなか難しい。レーザー技術の応用、パターン認識等を駆使してもそう簡単には測れそうにない。こんな時は現場を見るのに限る。私は入社以来「困った時は現場に行け」をモットーとして来た。時間を見つけて現場に通い、「ハス切り」はどんな時に発生するのか、板厚は、板幅はとオペレーターに聞く。観察・観察を続けていると、切る瞬間に装置が僅かに横に逃げるかの様に動いているのに気付いた。知見した内容を伝えて、機械整備の仕上げ職に来てもらい一緒に見てもらったところ、このラインのセンターと装置のセンターにずれがあること、据付に緩みが出ていることが判った。早速運転の担当に連絡し、ラインを休止させ、センターから取り直して据付の再チェック。以来「ハス切り」は出なくなった。検査からも、運転からも喜ばれたものであった。高価なレーザーの長さ測定装置を買わずとも、今後のチェック用として、オペレータに2mの直尺1本を渡して事は収まった。

元を正すのが先

これは典型的な一例であるが、工場でキッチリやれていないところで異常が出る、その現象を捉えるための、計測・計量が要望される場合がある。似た話をすると、板に出る傷を自動で検出する方法を考えるよりは、傷を出さないようにするのが先である。
 周期性をもって出てくるロール傷ならばそのピッチを測って、それを発生させているロールを点検するのが先である。
操業や検査の連中は「それでも出る」と言う。計測屋たるもの「過剰なサービスは禁物なり」の喩えである。

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失敗もあった

熱電対保護管

測ることに一生懸命の日々であったが、振り返って見ると失敗もしている。その1つは熱電対保護管の挿入深度不足であった。当時「考える小集団活動」なるものが奨励されあちらでも、こちらでも“QCサークル”が出来て活動が始まった。
 改善活動を進めてくれるのは良いが、職制を離れて独自の判断が入ってくるのが恐ろしい。高温ガス温度測定のためにはそれに耐えうる高級な保護管を使うのだがこれの単価が高い。しかも高い割には持ちが悪く、1カ月と持たない。これが改善活動の対象となり、あるとき挿入深度を浅くしたら持ちが良くなった。これは良い事だとその改善サークルの判断が出て、更に短くした。これを繰り返しているうちに、その設備の温度が次第に高くなり破損するという大事故を招いた。
 計装工事基準には当然のことながら、挿入深度は定めてある。しかしPRも足らなかったためか、教育が及ばなかったためかこのような失敗をしてしまった。これは今から30年も前の苦い経験であるが、その後20年も経ったであろう、今から10年程前に敦賀の原発で似たような事故を起こしている。
 同じ失敗でも計測仲間の内々でことが片付く類のものは、アースの取り忘れで指示誤差を出したり、同じく電気溶接機のアースが不十分であったために、はかりの刃をぼろぼろにしたり、他にも計装配線の間違いなど枚挙に暇がない。

排出ゲート

 先の熱源対保護管の失敗のように工場内、至っては重役まで聞こえてしまったものとしては、秤量機でのトラブルがある。製鋼工場の合金鉄秤量機ではクロム鉱石を測っていたが、年の半ばよりクロムの歩留まりが良くなったと聞きそれは良いことと喜んでいた。ところが暮になって資材よりクロム鉱石の在庫量が帳簿と合わないと言って来た。購入時のトラックスケールは間違いないし、不正計量が入ったことも考えられない。合金鉄秤量機に検査成績も公差以内である。こうなれば「真実を教えてくれるのは現場である」と張り付いてみた。判ったのは排出ゲートの漏れ、計量中に僅かながらも漏れて出ているのを発見した。年の初めにあちこちに謝りに行くこととなった。そしてこのゲート全閉の信号を取り、それが入らないと、計量開始はしないことにした。昨今では常識であるが、これも失敗の積み重ねが教えた知恵であろう。

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熱管理部門への進出

熱管理と労務管理

神戸に帰ってきてから4年間、珪素鋼・カラー鋼鈑で主としてデーターロガーを用いた計装・自動化設計を担当した後、隣接する西宮工場にて掛長を拝命し、計量と熱管理の両方を見ることになった。燃焼機器・乾燥機・熱交換器などがあり、私にとっては初めての技術分野であったので、熱管理士の勉強をしながら、ついでに、当時問題になり始めていた公害防止分野にも分け入った。
 管理課熱管理掛は3人の技師、作業長以下20余人の現業、女子も入れると30名ほどの世帯であった。しかし初めて直接の部下を持つことになったので、週の初めの朝礼などでは緊張して何を話すべきかを2〜3日前から考えたものである。新しい熱管理技術はさる事ながら労務管理の問題は、千葉に始まった人との付き合いは得意の方であったが、順全とした労務の仕事はそれ以上に特殊な問題も絡んでいて頭を悩ませた。
 2回の賞与、能率給の査定は嫌なものであった。皆に良く付けてあげたいのだが、枠やら規約があってそれができないからである。1、2年経った頃であっただろうか、班長会議の終わりの方で、ある班長が私に「掛長は何を持って我々の査定をされているのか」と尋ねてきた。私は自分の労働観とは「能力に応じて働き、必要に応じて貰えると言うことだ」と前置きした上で、「作業長や班長さんの査定は、あなた方が言っている事を信用しては行わない。私はあなた方の部下の仕事振りや日々の表情をみてあなた方の査定を行う」と答えたものであった。何事も忌憚なく話せるのが良い職場で、それで人は成長するのだと考えていたし、時には皆と一緒に風呂に入ったりもした。
 このような仕草の背後には日頃より、製鉄工場の中にあって、計測・計量の仕事は、溶鋼を何t出したとか、鋼鈑を何t圧延したとかとは全く異なる質のものだと考えていた。従って「計量管理」での人材育成とは、やはり自分と同じ視野を持って貰うことではないであろうか、と思っていた故である。

ノミュニケーション

新入社員の頃、千葉製鉄所の計量整備掛にて「これが仕事?」と驚いたり、「それにしても酷いことだ」と嘆いたとき、年配の作業長が慰めてくれたことにより始まった私の現業での仕事の倫理学も、若手の掛長になって1ステップ上昇したのか、1ステップ下降したのか。いまだに難しい問題である。
 私の倫理学には、ノミュニケーションがあった。必須科目ではなかったが、かなり大きな領域を占めていて、よく誘い合って街に行ったものである。当時は顔の利く店ならば給料払い、ボーナス払いで良かったものだから気軽に立ち寄れた。今のように何かと窮屈な時代ではなかったのが何よりであった。
 職場の皆さんと共に過ごした、春の花見や、日本海への夏の海水浴と釣り、冬は蟹すき旅行、今となってはそのような楽しい事だけが想い出される。

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板形状検出機

板の形状

冷間圧延機で鋼鈑を圧延する時に、圧延された板が全く平坦であれば何の問題もないが、両端が伸びて波を打っているような場合は〈耳伸び〉、板の中央部が伸びてべこべこになっている場合は〈腹伸び〉という。勿論その中間の〈4分の1伸び〉もある。しかし、圧延機で圧延する間は張力がかかっているので、これらは見えない。
 圧延機を止めて張力を切ると目に見える形で現れるこれらを、圧延機を止めて張力を切ることなく自動的に検出にしようとするのが形状検出機で、当時は世界でスウェーデンのアセア社、英国のD・ローイ社、日本の日立(開発中)の3社しかなかった。私の工場ではゼンジミアミルという多段ロールのコンパクトな圧延機を用いていたので、最も小型にできているD・ローイ社のものならば使えると考え、研究開発費を申請してこの開発に取り組んだ。アルキャン(カナダ・アルミニュム社)のDr.ピアソンが発明したものを英国のD・ローイ社が買い取って実用化を考えたばかりのものであった。ただし、このような機器は単に測れるというだけでは駄目で、測って得た測定結果をいかに制御に用いるか、どうすれば制御の指針となり得るかが問題であった。従って制御理論の開発も行うという条件も付けていた。

表面傷検査装置

当時の鉄鋼業での他の主要な開発課題の中に、表面傷検査装置があり、私はこれにも興味を持っていた。圧延中の高速で走っている鋼板の傷は、人の目には見えないからである。ところがこちらの方は、海外では表面傷自体が市場で問題がないらしく、鉄鋼各社も取り上げないし、表面傷検査装置を作るメーカーは海外にはなく、日本だけで3〜4社が競っていた。
 形状検出機も表面傷検査装置もいずれも相手があり、相手にもいろいろな段取り、試作の時間もかかるので、複数のテーマを追いかけていてもそれ程苦痛でなく、通常業務のようであった

始めての海外出張

形状検出機は、圧延機内への取り付け工事を国内のメーカーに依頼している内に、英国で試作機が出来上がったとの報が入り、出かけることになった。
 この際にヨーロッパでの技術調査も兼ねてと思い、英国以外にドイツでステンレス鋼板を作っているクルップやドイツ特殊鋼、スウェーデンのアセア社、イタリアのゼンジミア社(ゼンジミアミルと称するステンレス鋼板用等の圧延機メーカー)も訪問することにして、D・ローイ社の窓口であるトーメンに旅行のアレンジを依頼した。
 各社の担当技師に宛ててレターを書き、形状検出だけでなく、表面傷検査装置の開発についても参考意見が聞ければと思い、参考試料なども英訳して準備を進めた。これらの行動は、以前の19委員会や計測部会のところで述べたように、関西にいて、東京の連中は何を考えているのかを知りたいと思ったのと同じで、今回はヨーロッパの連中が何を考えているかが知たかったし、またお互いに議論もしたかったからであった。

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ヨーロッパ出張
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デュッセルドルフへ

先方の都合もあり、出張の日程は4月末から5月中旬と決まった。ゴールデンウィークのど真ん中である。ゼンジミア社がイタリアの田舎に来てもらうのは気の毒だから、パリのゼンジミア社で打ち合わせを行おうといってきた。また、形状検出機の発明者のDr.ピアソンとはロンドンで会うことになった。この話を率先して進めて下さった直属の部長は「高徳君、ヨーロッパはベストシーズンだよ、パリのシャンゼリゼ通りではマロニエの花が散って肩にかかってくるよ」と、まるで人が観光旅行に行くかのようにいわれたのには参った。
 まずデュッセルドルフへ飛び、クルップとドイツ特殊鋼を訪問した。

ドイツの技術者

大きな部屋に秘書がいて、入って挨拶を交わすとソファーを勧められる。別の事務用テーブルの上には、私とのミーティングのためのファイルが既に用意されていた。
 大部屋で2列、3列と机を並べ作業着で座っている我々日本の技術者とはこれほどまでに待遇が違うのかと、唖然とさせられた。着ているものは作業着ではなくスーツである。ファイルの中には色々な文献が揃って入っている。日本のこともよく調べている。これを見てまた感心、悠々と仕事をこなしている風情である。現場を見せてくれと頼めば、上着を作業着に着替えてスタスタと出かける。ドイツ特殊鋼もクルップと似たような対応であった。昼には、周りに野生の鹿を見かけるようなレストランで食事。ゆっくりコーヒーをいただけば、もう終わりの4時近い。
 2社とも板形状検出には関心があったが、疵検出には興味を示さなかった。ドイツでは、日本みたいに細かい疵などは問題にしていない事も判った。残念ながら、彼らの方がずーと合理的なのである。鋼板の上にちょっとした疵があるなどの下らないことには、気を取られない国民性なのかも知れない。

スエーデンのアセア社訪問

アーランダ空港からのドライブがまた素晴らしい。車は青い森とたくさんの湖を縫って走る。所々にシェルターが見えるのもこの国の特色らしい。大きな森に囲まれた中に、立派なアセア社の建物群が見えてきた。会社紹介の映画館がまた大きい。日本人1人では申し訳ないと思った次第。
 事務所はドイツとは異なりワンフロアータイプ。しかし大部屋に机ぎっしりの日本とは違って広いこと。皆さんが思い思いに机を置き、空きスペースもあり、植木も置かれ全体がゆったりとしている。事務所の設計方針に、ワンフロアーというのがあり、あちこちで意見交換をしながら仕事を進めていることも教えられた。
 一般の工場見学の後、某社向け組立中の形状検出装置を見せてもらった。やはり北欧一の電気会社だけあって建物もその配置も素晴らしかった。白夜に近いストックホルムで市内観光では、落ち着いたたたずまいを楽しんだ。明くる朝、再びデュッセルドルフに帰り、週末をドイツで過ごしてパリとロンドンへ。

ドイツの週末

(出張中に)なぜ2回もデュッセルドルフを訪れたのか。実はここに商社の駐在員をしている兄貴一家がおり、週末はオランダの方にドライブに行こうと誘われていたからである。
 兄一家と、ライン川に沿ってボンに行き、古城をはじめ、ケルンの大聖堂やベートーベンハウスの観光を楽しんだ。翌日はオランダに向かい、当地の庭園(キューケンホフ)を散策した。ここの美しさと広さは見事なもの、桜からチューリップまでありとあらゆる花が満開であり、とにかく日本では見られない光景に驚いた。欧州に来て気づいたことは山がないこと、従ってアウトバーンでもトンネルなし、これをベンツで走ったときの感触がまた凄かった。
 ちょうど私の欧州出張の直前に、兄嫁の実家が京都伏見に酒蔵を新設した。ここで出来上がったばかりの新酒を土産に言いつかったものだから、兄貴の家ではすき焼きをご馳走になった。肉も美味で、材料も全く日本と変らないのには驚いた。

パリでの無念

残念であったのは、パリ。出発の際に工場長が、モンマルトルの丘で食事を取るようにと勧めてくださったので、そこに行きフランス料理を頂いた。 その後、ぶらぶらしていると、大きな教会があったので、入って礼拝に与った。フランス語は全く判らないが、聖歌隊のコーラスが素晴らしい。パンとワインの聖餐にも与り、献金も捧げた。気持ち良く会堂を出てくると、生憎の雨、タクシーでホテルに帰ろうと待っていると、後ろに老婆。順を譲ったつもりが、その老婆が「お前も乗れ」という感じで、「送っていってあげる」と言う。「お前はクリスチャンだろう」と話しかけて来るが詳細はさっぱり判らない、サクレ…、サクレ…、と言うが何の事やら、両手で大きな円を描く。このお婆さんは田舎からきた巡礼中の人で、日本から来た私のことを非常に喜んでくれているのは判る。お礼を言いたいのだが言葉が出てこない。別れ際にお婆さんは抱きついてほっぺにキスをしてくれた。運ちゃんにお代を払おうとすると、婆さんからだと手で示して取らなかった。
 言葉が話せず、こんな残念なことはなかった。ホテルでガイドブックをめくってみると、そこは「サクレクール寺院」、そこで「聖餐」を一緒に受けたじゃないか…と婆さんは言っていたのだと気づいたのだが、時すでに遅し。
 その夜はホテルの部屋で、スーパーで買った食料とワインを飲みながら憂さ晴らしをした。次の日は、英語ガイド付の観光バスでパリ見物、ルーブル美術館もゆっくりと見せて頂いた。

緑の大地、英国へ

明けて次の日は、ヒースローへ。広い広い緑の彼方に空港が見えた。フランスでは言葉で散々であったので、英語のアナウンスを聞いてやれやれ。ロンドンで2泊して市内観光。ハイドパークでは偶然にも退役軍人のパレードに出くわした。長めのコウモリ傘を鉄砲に見立てて持ち、整然と行進する。パンフレットを配っている人を見つけたので、私も欲しいと言うと部外者にはあげられないと言って後を向いて渡してくれた。このウイットに富んだ仕草を見て、真に英国に来た気分を満喫したものであった。
 翌朝は、由緒ある英国鉄道でシェフィールド(英国のほぼ中央に位置する工業都市)へ。ここで形状検出機と初顔合わせをし、説明を聞いて、動作の確認テストをした。合わせて4日で一連の検収を済ませた。次に、呼んでくれていたBSC(英国鉄鋼公社)の技術者と形状制御のディスカッションをし、終わりの日には皆で飲んで騒いだ。
 シェフィールドのD・ローイ社の人が週半ばの半日を空けて旧貴族の館を案内してくれた。豪華極まりない敷地と建物に「世界には金持ちはいるものだ」と驚いた。それに対して、その敷地の傍らに並ぶ使用人の住居が対象的であった。英国の階級制を目の当たりに見た気がして、マダム・チャタレイ(小説『チャタレイ夫人の恋人』)の背景がよく解かったような気がした。
 実は内心、ロンドンで仕事を終えた後に業務の出張からは外れて、お忍びでローマに立ち寄りバチカンほかを見物して帰るつもりでいた。兄貴もデュッセルドルフで別れるとき「ヨーロッパに来た限りは、必ずローマには寄って帰れよ」と言ってくれた。しかし言葉が通じなかったパリを思い出し、南に行くほど治安は良くないことも心配し、ロンドンでゆっくりして帰ることにした。後から思えば、やはりあの時は疲れていたのだろうか?

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建屋集塵機の風量制御

目的は省エネ・工事費削減

1975(昭和50)年、環境の問題が日増しに大きく取り上げられるようになった。わが製鋼工場の50t電気炉2基を中心とする6カ所の精錬炉や造塊ヤードにおいても、煙を建屋の外に出してはいけないという厳しい制約がかけられた。あちこちから発生する多量の煙や粉塵を建屋内にて吸い取ってしまわなければならないというのである。
 種々の計画が練られたが、計算によると膨大な集塵機と屋根の上には大口径の配管を設置せねばならなくなり、建屋自身がその荷重に耐えられるかどうかという問題まで出てきた。
 そこで、私はコンピューターを利用した風量制御を提案、操業に僅かの制約は与えるが、全体として集塵機・建屋上配管を半分にできると、その概略を説明した。各発塵設備の運転に優先順位を設け、または電気炉2基の操業開始時期をその後の処理作業での発煙パターンを考慮して、少しずらして開始すれば良い。また排煙を伴う各作業の開始に際しては、予約制としてボタンを押すだけの操作をすれば、後は12枚のダンパー操作を総てコンピューターに行わせ最小限の風量で操業が可能となる、いやそうして見せる、というものであった。

横河電機(株)の協力

(コンピューターを利用した風量制御を提案したが)予算が通ってからが大変であった。集塵機屋には、総力を挙げて開度―風量が普通のS字型でなく、できる限り直線性を持ったダンパーを設計するべし、と注文を付けた。
 コンピューターの発注先が横河電気(株)と決まった時には、県立西宮高校の同期で同じ物理部でガキ同士で騒いでいた友(当時横河電機(株)の電算機担当部長)に趣旨を説明して、横河電機で一番の流量のシュミュレーション計算とソフトができる人を廻して欲しいとお願いした。ありがたいことに、快く引き受けてくれて、実に適切な素晴らしい人を担当させてくれた。
 こうして制御の問題が片付けば、残るは計測、即ち風量測定である。口径1m〜2mの大口径での風速測定は初めての経験であった。文献調査から始めたが、行き着くところはやはり多孔ピトー管であったが、取り付け場所の選定に細心の注意を払った。これでやれやれ。
 それでも、いざ工事に入ってみると直径2mにもなる煙道が屋根に上げられ、2基の風量25000m2/minのブロアーと1100kwのモーター2台を見ると、我ながら「デッカイことを企てたものだなぁ。うまくいくかなぁ」と自信が失せる思いがしたものであった。部分的な試運転を済ませ、総合的な仮想運転へと移った後、部分的な実運転から総合的実運転へと入った。

煙の道

結果は大成功、これほどコンピューターの威力を肌で感じたことはなかった。
 その後、個々の設定風量を少しづつ変更して行ったり、タイミングのずれを修正したりしていくと、コンピューターの計算の威力はますます増していった。
 発生するであろう煙を想定して、前もってダンパーの開度を所定のところに持っていき、風量が出てきているタイミングで発煙作業をはじめると、煙は素直に煙道に吸い込まれていく。実に美しい煙の流れである。これに反して煙が発生した後から吸い取ろうとしても、すなわち後から煙の道を付けようとしても、一度広がった煙は集まらない。従って予約、ダンパー開度設定、発煙作業開始の順序の厳守で製鋼作業は何の問題もなく進められ、建屋からは一条の煙も出なくなった。
 投資コストが半減で収められたことが何よりも喜ばれたのは言うまでもない。
 この件では、特許も取ったし、機械振興協会賞も頂いた。それに付けても、高校時代とはいえ、友達とはありがたいものである。

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兵庫県計量協会

社外の人達との計量管理

昭和40〜60年代の神戸では、兵庫県計量協会の管理部会長は、川崎重工業(株)・(株)神戸製鋼所・川崎製鉄(株)の3社の持ち回りであった。私が会長会社のスタッフでいた頃は、各メンバーに加え三菱電機(株)、製鉄化学工業(株)をはじめ日本チバガイギー(株)、六甲バター(株)の方達がよく顔を出して活動に参加して下さった。
 当時はもちろん「計量器使用事業場」を中心とした集まりで、事業所内での計量法に対する意識も強く、折から高まり始めた大気汚染管理にまつわる、濃度標準やトレーサビリティへの要求を始めとして、機械加工に関するJISへの要望などが取り挙げられていた様に記憶している。催しへの参加者も多く、わが社で開いたシンポジウムには200余名も集まったのを覚えている。

省エネルギー・省力化の為の計量管理

私もこの頃「工場における計量管理部門の今後の課題―省エネルギー、省力化の時代に備えて―」と称して問題提起をしている。その中に、「私達が行う『適正な計量の実施の確保』を通して経済の発展と文化の向上に寄与すべきことを考えるならば、時代の要求を知り、それに答えて、また、どこかでは『かくあるべき』と規範を示して日常の活動に従事すべきであろう」と述べその後に「高度成長の遺産の一つは高い人件費だと考える、……従ってこれから求められるのは、省力化である……」と書いている。さすがに現役の発言であるから現在よりも自信に満ち溢れていて、羨ましい次第である。
 ここでは、管理部会長(代理)を2期務めた、現在の「計量管理研究部会」の先駆けであったのだろうか。当時指導してくださった、計量協会の平井さん、小川さん、一緒に働いた神戸製鋼の山本さん、小川さん、川重の荒木さん、ライオンの関口さん……が懐かしい。
また、県から「エネルギー技術指導員」なる辞令をもらって姫路の鉄工所や淡路の瓦屋の熱管理診断にも参加した。

人違いもあった

2008(平成20)年のことであったが、東京で全国計量士大会が開かれたとき、兵庫県のMさんに挨拶を受けた。久しぶりですね、といかにも親しく話されて私自身も“この方は私のこと、父のこともよく知っておられる”と感心し、意気投合して歓談後、別れた。明くる日に電話があり、「あなたを、お父さんと間違えていました、神戸に帰って仲間に話したら、それは息子さんだと言われました」とのこと。Mさんは謝っておられたが、私は謝られる理由が解からず、ありがたい事だと嬉しく感じていた程である。最近、私はかっての父に似てきたらしく、父が60歳で引退し90歳になるまで30年を過ごした丹波に私が行くと、近所の人は「よく似てきなはった」と言い、遠くの所の人は「いつまででもお元気ですな」という。

環境計量士を取得

環境計量士が誕生したのもこの頃で、当時の兵庫県計量課のある方が、「環境計量士は良いとしても、我々を『一般計量士』と呼ぶのは何ということか!」と嘆いておられたのを覚えている。
 あの頃は環境問題が新聞の一面に掲載されない日はなかったものである。
 私も早速、会社で化学分析の連中に教えを請い、化学・環境測定を実験しながら勉強し、環境計量士を受験した。試験合格後には東京の清瀬で2週間の実習が義務付けられていたので、上京し実習に参加した。当時の研修所の所長が、元日本計量士会会長、現東京計量士会顧問の蓑輪善蔵さんであった。

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謡と仕舞い

能の効用

謡は、千葉時代の1962(昭和37)年頃に関西で父や母と親交があった部長や課長さんがおられて、その方々から声がかかり、お稽古に通い始めたのが始まりである。しかし、仕事が忙しくなってきて一時中断があり、転勤で関西に帰った後に仕舞と共に再開した。
 その背後には、幼児期の言語障害みたいなところが無くならないかなぁ、という期待があった。時折上司からも“もそもそいって、何だか解からん”と言われ劣等感を感じていた故でもある。しかし「おしゃべり」と「謡い」とは頭の回路が別であり、その効果はないことに最近気がついている。
 しかし謡には、六つの得が在るとされている。すなわち、行かずして、名所を知る。老いずして、古事を知る。触れずして、仏道を知る。恋せずして、美人を知る。薬なくして、鬱気を散ず。詠めずして、花月を臨む。更に大声を出すので丹田式と同じ腹式呼吸をして、内蔵にマッサージを与える結果となり、健康に良い。仕舞は背筋を真っ直ぐに伸ばすこと、腹に力を入れてすり足で歩くので足腰が鍛えられ、健康に良いことの2つが加わる。
 暇な時などは、我が家で独りで謡っても、美人に会えるし、名所を尋ねて花月を臨めるし、結構楽しいものである。お金が全く懸からないのが、私のごとき貧乏人には何よりだ。その上ゴルフと違って、年を取ったからといって腕前が落ちたということもない。

親孝行

最初に千葉で謡を始めた動機、神戸で再開した経緯には、正直言って親孝行になるかも知れないと考えた事があるのも確かである。始めは母に、次には父に習おうかとも思っていた。父母は隠居後の丹波で、村の人たちと謡と仕舞の会を催していた。私が神戸や東京から里帰りして、会に参加すると非常に喜んでくれたものである。
 なぜか我が家は父系・母系とも能を楽しんだり、謡を謡ったりする祖父・ 曾祖父がいて(いずれも観世流)、現在私が用いている紋付や袴はその辺りから受け継いでいる物が多い。仕舞を舞うときの扇にしても不自由はしなかった。あるとき宗家の紋が入った扇を使ってみようと師匠に相談したら、こんなものが貴方の家にあるのがおかしいとも言われた。先代が跡継ぎのない師匠から譲り受けたものであった。

晴れ舞台

職場での同好会にも恵まれた最後の時代であり、千葉に限らず、神戸や西宮でも職場のサークルとしての先生に付いていた。また川鉄だけでなく、川重・川崎航空、川崎車両も含めた全川崎での発表会もあり、立派な舞台で謡や仕舞を楽しむこともあった。
 最も特異な経験は、2010年1月の「東京計量士会創立10週年」に、皆さんにおだてられ、椿山荘にてお目出度い曲として『老松』を謡ったことである。
 転勤が多かったので、あちこちの師匠に教えていただいたが、現在は東京にてこの10余年、上田公威師に習っている。観世宗家直々の師匠であり、私と同じく神戸出身でもあるため心安くしてもらっている。
 最近は背中も曲がり気味で、無様な姿をさらしたくないので、舞台での仕舞は止めている。その分謡に専念している、その功が実ってか昨年『道成寺』のお免状を戴いた。これは重習(おもならい)奥伝という卒業証書に値するものである。半年を要したが、習いながらやはりその値打ちはある曲だとつくづく感じ入ったものだ。そして2009年の6月、渋谷の観世能楽堂で開かれた上田観正会では、地頭を宗家に、『隅田川』の渡し守を演ずるワキを謡わせていただいた。わが謡の生涯最高の舞台であった。

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父の引退

計量器工場の特色

前にも触れたが、父は私と同じ川崎製鉄(現JFEスチール)で、はかりを製造する計量器工場で工業用はかりの設計・製造を担当しており、同じ「はかり屋」でも製鉄現場でそれらを使う私とは全く異なる仕事であった。
 私が千葉製鉄所にいたときに、1964(昭和39)年、製鉄会社計測集団の見学があり案内をしていたら、転炉に投入するスクラップ秤量機に、かなり高所から1tを越すようなスラブの切れ端を「ガッタン」と大音響を発して落とし込む光景に出会った。見学者は思わず「あれではかりが壊れないのか」と聞いてきた(当時は刃と刃受けを持った槓杆(こうかん)式はかり)。あれこそ我が計量器工場製だと威張ったものであった。製鉄所向けの大容量にして堅牢なはかりを得意としていた。
 もちろん川鉄以外でも業績を伸ばしていたようで、あるとき国鉄から受注したことを、父は喜んで話していた。

はかり屋の業界

千葉や水島に巨大な臨海製鉄所を建設していた時代では、大容量に加えてより高精度・高速な計量が求められた仕事も多く、計量器工場のはかり屋集団もそれなりに大いにチャレンジしていた。
 父は当計量器工場が川鉄の中で異色な存在であることを始めから判っていたし、この事からくる問題にも頭を痛めていた感がある。後述する論文のある頁のグラフに縦軸に資本金(あるいは従業員数?)、横軸に会社名をいれたものがあって、父は「この業界はかくの如く中小企業の集まりで大企業はいないのだ」といっていた。父がこの業界で活躍した戦前から戦後の昭和30年頃までは計量器メーカーは押し並べて中小企業であり、特色がある企業がシェアーを分かち合っていた時代であった。例えば、父が大阪の「看貫堂」におられた小野龍三郎さんを、大和製衡(株)に紹介したりした事もある。企業間の交流が盛んな、よい時代であったとも思われる。
 ところが、高度成長期に入り、企業が熾烈に競う頃になると、計量器業界もかつての体質は通らなくなっていたと想像する。まして川鉄なる大会社の一部所でしかない計量器工場では、計量器業界の商売感覚が通用するわけがない。そのきっかけになったのが西口譲氏(後の新光電子(株)初代社長)である。氏の旺盛な研究心や開発意欲に対し、巨大な製鉄会社をバックに有している計量器工場としては、小回りが利かないために、父は彼の要望には答えられないでいた。現体制では、若い人達を伸ばしていくのに限界を感じていたのである。
 結局西口氏は1963(昭和38)年に独立。父は残念でもあり、彼に対しては申し訳なく思っていたようであった。

父の「遺書」

 そのようなことがあって後、次第に高度成長が下火になった頃から、父は憂いを抱き始めた。西山社長は祖父高徳純教のことも記憶しておられ、父のことも旧高徳衡機時代から知っていて下さった方であり、お元気な頃は、父も張り切って日々の仕事に励んでいたようであった。「西山社長は、計量器工場には予告無しにくる」と自慢げに語っていた父が思い出される。正に「名君のもとに人は育つ」であった。
 この西山社長が亡くなられ、良き理解者を失った父には、尚一層、問題が顕在化してきた感がある。鉄の経営者が何かあれば「t当たりいくらだ」と言うのも耳障りというもの、はかり屋の経営がさっぱり解って貰えないとよくこぼしていた。
“計量器工場の経営はどのようにあれば良いのか”が最大の課題となり、米国のピーター・ドラッカーなども読み勉強もしていた。その結果、“従業員が嬉々として働ける工場となるためには”川鉄からの分離独立しかないとの結論に達したようである。これを「計量器工場の経営はいかにあるべきか」と題する200頁におよぶ論文に書き上げ、会社に報告、自費出版して心ある人達に自分の『遺書』として配布し、1968(昭和43)年に退職した。川鉄計量器(株)(現・JFEアドバンテック(株))が誕生したのは、その後5年を経過してからであった。
 退職後は疎開先であった丹波に小さな家を建て、晴耕雨読ならぬ晴耕雨舞(仕舞のこと)の生活に入っていたが、独立記念の会には夫婦で招待を受け歓待されたことを後日喜んで語っていた。

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BHPへの技術援助

厚板形状制御技術を海外へ売る

 1984(昭和59)年、関西を離れ、東京本社のエンジニアリング事業部に異動した(いずれも川崎製鉄(株)、現・JFEアドバンテック(株))。
 スラブといわれる連続鋳造設備から切り出される矩形状の極厚の鋼材を普通に圧延していくと、頭部と尾端部に製品にならない異形状ができる。この頭部と尾端部を切り落とし、予定した定尺の板を得ようとすると、製品歩留まりが悪くなる。もし圧延し終えた厚板形状が、頭部と尾端部で長さ方向に対して直角であれば望むところとなる。圧延中にスラブの幅、長さと温度を繰り返し測定しながら圧延方向と圧延圧力を変えていく計測と制御ソフトが一体となった「MAS圧延」という技術が、我が社で開発された。この技術を海外に売るのがエンジニアリング事業部での私の初仕事となった。

オーストラリアの製鉄所

 BHP社は、鉄鉱石や石炭の膨大な資源を持ち、これを世界に売っているオーストラリア最大の会社であり、川崎製鉄はそこのお客でもあった。またシドニー近くのポートケンブラに製鉄所を持ち、その中の厚板工場が私たちのお客であった。我々はまずドキュメントを送り読んでもらい、先方の計算機のソフト改造、センサーの取り付けができあがったところで、実運転を行っている日本の製鉄所で実習してもらう事にした。
 私にとっては初めての海外業務であったので、まずは先方に礼を尽くすべきだと考え、大使館にビザの申請を行った際には、この国の歴史、政治、社会などの資料をもらって帰り、勉強をした。
 ところがやって来た客人に会ってみると、同業の製鉄屋という気安さも手伝ってか直ぐに打ち解けることができた。先方も日本のことを良く知っていて、お互いに礼儀を欠くこともなく、スムーズな打ち合わせとなった。彼らも英国の伝統を受け継ぐ紳士達であった。

無事に終了

 オーストラリア人特有のアクセントには少し悩まされたが、“ゆっくりと”の連発で無事切り抜けた。現場にいる日本人技師の英語を読み、我々日本人の英語がいかに解り難いものであるかが理解できたのが何よりの収穫であった。
 お互いの交流を通じて、我々がはじめに出したドキュメントの不備がわかり、これらを修正し再提出した。その2〜3週後、先方のマネージャーから感謝状としてのレターをいただいて、嬉しかった。このような経験から、幼い頃から抱いていた人付き合いにおける劣等感からようやく解放された思いを感じていた。
 この厚板の技術援助の話はフィンランドへと続いたが、残念なことに私にはソ連の仕事が待っていた。

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ソ連向きカラーライン

連続カラーラインを輸出

 1986(昭和61)年からは、カラーラインのプラント輸出に関する件で、ソ連と日本を行き来することになった。
 このカラーラインとは、コイル状に巻かれた鋼板に前処理を施した後にカラーペイントを塗り、そのあと乾燥と焼き固めるのを連続的に行う設備である。設備の全長は約150m、操作室も前処理・中央・出側の3カ所に分かれていた。処理したコイルは、決まった寸法に切れば屋根や壁板は勿論のこと、自動車や冷蔵庫にも使用できる。当時はまだ共産政権党最後の書記長であるゴルバチョフが健在であったが、党自体も軍事より民生が重要とも考え始めたのであろう。このプラントは平和社会向きの利用度が高い鋼板処理設備であった。この仕事を日本は、我が社をリーダーとする中外炉工業(株)と三菱電機(株)の3社によるコンソーシアムの形で受けた。

初めてのモスクワ出張

何よりもまずロシア語である。NHKのロシア語講座は欠かさず聞いた。ビデオに撮り何回も繰り返し学んだ。テキストにもソ連邦の国土の面積はアメリカの2・5倍、世界の陸地の6分の1を占めるとあり(当時)、大国にして共産主義の国だということが、私の仕事に関する緊張感を自然と高めていった。
 1987(昭和62)年、初めてのモスクワ訪問で、チェレメチェボ空港に降り立った時の印象がまた悪かった。建物全体が暗くて、自動小銃を持った見張りが立っている。荷物を長い間待った上に、入国審査は正面を向き直立不動の形でうけた。無事帰れるのかなあと不安を抱いたものであった。
 仕事はまず、契約に従ったドキュメントの提出から始まった。相手は鉄鋼省に所属する輸入審査官のM氏である。計測と計算機は“オートメーション”としてまとめられ、これが私の範囲となっていた。
 M氏は英語が達者であり欧米の論文にも目を通していて、製鉄プラントのコンピューターコントロールの情報にも詳しく、交渉相手としては最も扱いにくい人であった。また、我々が納入するプロセス用コンピューターの上位には生産管理用の大型電算機をシーメンスから入れていたが、彼はその方の担当者でもあった。従って、我々から関連情報を引き出そうとする彼と、商売に徹して早くまとめようとする我々とで論じ合うことも多々あった。最大の問題は、連続焼付け炉での板温制御の精度に関する契約書での文言が、非常に厳しいことにあった。この場では、私は熱量計算の精度とフィードバックによる安定性を説いてM氏にわかってもらった。

レトルト食品で夕食

 1回の出張は2週間、平日は先方との折衝は4時半頃に終わり、皆が一団となって市内のレストランへ行き、キャビアありウオツカありの楽しい夕食となる。話が順調に完了すればそれで良いのであるが、時にはソ連軍団との話し合い以降に日本人同士のインナーの話し合いが始まる事も多かった。熱中して気がつくと、すでにレストランもホテルの食堂も夕食の予約を受け付けてくれない時間になっている。共産主義社会ではサービスを旺盛にして、売り上げを上げようという気が全くなく、時間が来れば「はい終わり」とくるのだから無理もない。
 夕食は仕方なくホテルの我が部屋で、手持ちのレトルト食品を温めていただく。立派なホテルなれど、ビールもサンドイッチも何もない。お酒は出国時に成田の免税店で買ってきた米国のバーボンを常とした。ご飯・ラーメン・ライスカレー・缶詰など、我が国のレトルト食品がこれ程良くできているとは思わなかった。200V用携帯用湯沸かし器のお世話になり、袋ごと暖めて食べたものであった。

ココム規制で苦労

 当プロジェクト活動がようやく軌道に乗りかけた矢先、1987(昭和62)年に東芝機械のココム規制(共産圏輸出規制)違反が明らかになり、通産省の共産圏への輸出審査が急激に厳しくなった。「ソ連なんかにはもう輸出してくれるな」と言わんばかりであった。コンピューターやデータロガー、計測器や通信機に至るまで全てのものについて、違反していない事を証明する書類を作成し、通産省に説明に行くのである。全く余計な仕事が転がり込んできたものであった。この処理に当たりながら「どうして日本の通産省がアメリカのために気を遣って国民に仕事を押し付けるのか」とつくづく思ったものである。

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モスクワの町並み

市内観光も「順番で」

 モスクワでの仕事は、一回行くと2週間の打ち合わせとなっていて、間の土日が現地での唯一の休日となるが、大概の土曜日はインナーの打ち合わせとなってしまう。
 またこの地への旅は出国前に予定を決め、ホテルの予約を取らなければ入国ができず、ホテルに入ればパスポートを取り上げられるので全く自由が利かない。従って1泊2日のモスクワ近郊への旅はいつも幻と化していた。仕方なくクレムリン、グム百貨店、革命記念公園等を見学して廻るのだが、何処にいっても行列、何を買うのも順番だからしょうがない。
 当時はゴルバチョフによるペレストロイカが盛んな時であり、禁酒令が出たりした。そこで、酒屋の前には長蛇の列。「このような世にした奴は許せない、俺が行って殴ってやる」と言って列を離れて行った男が暫くして帰ってきた。隣の人が「どうしたのか?」と尋ねたら「あちらの列の方が長かった」というアネクドート(ロシア逸話)があった。

ルーブルでの買い物に挑戦

我々外貨(ドル)を持つ者は「ベリョースカ」という外貨ショップに行く。いろいろな物が何不自由なく買える。インツーリスト(国営旅行社−英語・日本語で話せる)を通してドル払いで、ボリショイサーカスやバレエ、モスクワ国立交響楽団のチケットを入手するのは容易である。
 しかし憶えたばかりのロシア語を駆使して現地の窓口でルーブルで買ってみると、外貨ショップと比べ格段に安い。ドルで買うのとでは全く異なることを知った。考えてみれば、外国に行けばその国の人と話し、その国のものを食べるのが交わりの本筋であり、やたらとドルをちらつかせるのは寧ろ邪道なのである。
 運よくチケットが手に入り、ボリショイサーカスやバレエに行けたり、モスクワ国立交響楽団のチャイコフスキーを聞けたりもした。

ドストエフスキー博物館

ソ連へのプロジェクトと初めて聞いたとき、まず頭に浮かんだのはドストエフスキーのことである。共産主義社会で彼が如何に受容されているか、ソルジェニーツィンの人気はどのようなものなのか、など好奇心が沸いたが、所詮業務の出張の合間ではどうにもならなかった。
 現地で地図を買い求めてドストエフスキー博物館を探してマークを付け、あちこちの人に聞いて回った。その結果、消毒の臭いが漂う病院の中庭らしきところに彼の立像を見つけた。軍医を父に持った彼の生家がここであろうと想像した。要するに彼はこの地では受け入れられていない、ということだけは解った。

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現地調整・指導での長期滞在

トレーニング生の受け入れ

ドキュメントの提出が終わり輸出機器の製作が始まった1988(昭和63)年に、完成図書のチェックと実操業の実習のためにモスクワの事務局とノボリペツク製鉄所からの人達がやって来た。度重なる打ち合わせの結果、私は、少なくともモスクワではソ連人とロシア人を区別して対応すべきだとの結論を得ていた。即ち、共産党独裁体制での生粋の官僚がソ連人、ルールと権限を重んずる人達で、これに反して大らかで人懐こいのがロシア人である。
 しかし彼らが日本にやってきて東京(川鉄)や鎌倉(三菱電機)でミーティングを始めた頃には、次第にソ連人の影が薄くなり、「かたち」が消えていった。モスクワでの打ち合わせでは、時間が無いので昼食にサンドイッチを出して食べながら進めようとしても、別室に持ちかえって食べていた程の人達が、日本では全く居なくなっていた。皆本来のロシア人に還っていったのである。
 もう一つ驚いたのは秋葉原の電気店、有楽町界隈の薬局の情報に詳しく、買い物に専念する姿であった。買うためのお金を浮かすために、秋葉原から宿舎のある品川まで歩いて帰ったと聞いてまた驚いた。
 当時禁酒令が出ていたソ連と違って、街角の何処でもお酒が買えることを体得して、「これは大変なことだ、もうすぐ日本人は皆アル中になる」と心配してくれた友もいた。

ノボリペツク製鉄所へ

1990(平成2)年、現地の建設も進み、調整・試運転の状態に入ったので、監督者として現地に出かけることになった。ノボリペツク製鉄所は、モスクワの南に直線で約300km、列車では約500kmのノボリペツク州にある、ソ連の最新鋭の製鉄所だった。我らの宿舎は製鉄所が運営しているホテルであり、工場から約30km離れた小高い丘の上、市の中心を少し外れたところにあった。送迎バスで工場に通い、昼食はこのホテルに帰って頂き、少しの昼寝の後再び工場へ。土・日曜は休みで残業なし。
 時間は充分あると聞いていたので、この機会に読むべしと、『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』『白痴』を持参した。また『未成年』は後から送ってもらった。
 予期していなかったが、職場で知り合った人達からもらったこれらの原書と見比べて読むこととなり、喜びも倍増であったし、またこれによって友達もできた。

現地の計測屋

私の受け持ちはオートメーションで、中身は計測・コンピューター・シーケンサーであったが、技術レベルは至って高く、先に送った資料をよく読んでくれていたので楽であった。はかり屋はオートメーションとは別集団でいたが、この国の「ゴースト」(ГOCT)なる国家規格は完全なメートル法が取り入れられており、何も問題はなかった。
ヤードの中に「タカトクワゴンチキ」(簡易ハウス)なる個室があり、何かあれば彼らが訪ねて来た。冷蔵庫の中にはビール、ウオツカとつまみを常備しておき、3時過ぎてからやって来る友には一応誘うことを礼儀としていた。
 朝は調整作業の見回り・状況チェック、順調であれば明日以降の作業説明と指導、実際の問題は殆んど出てこなかった。あるのは露訳の拙さ、その前に我々が書いた英文の拙さにも責任がある(我々がソ連に提出したドキュメントはページの左半分は我々が書いた英語、右半分にはそれを訳したロシア語が書いてある)。この種の問題はお互いにすぐ判るので、顔を見合わせて笑うほどであった。
 モスクワのミーティング以来気にしていた板の温度制御については、念のため三菱のコンピューターに入れた制御計算式を別に用意した可搬形計算機に入れ、検証用の接触式板温計も秘かに持ち込んでいたが、全くその心配はなかった。この2つの秘密兵器は帰る時、計測のリーダーにプレゼントし、お互い喜んだことであった。

高徳コック長

ホテルでは3食ともいただけるが、似たものあり・不味いものありで日本人には評判が悪く、滞在半年で体重が2〜3kg減った人も出た。そこで、私が行く少し前から夕食は自分達で作ろうということになり、一室を借りて炊事を始めていた。始めは日本から持ち込んだものが主であったが、私が行った頃からは現地調達のものも次第に増えていった。
 私は面白半分に、若者を伴って土曜日に自由市場で肉・野菜を買い、いろいろな料理を食卓に並べた。料理は全くの思いつき、かつ自己流である。こんなことを繰り返してやっていると、誰言うことなく私が「コック長」と呼ばれるようになった。こうなれば私の態度も大きくなり、自然と周囲の協力者に指示を出すようになった。日本から来た新人はまず人参・ジャガイモの皮剥きである。手つきを見て料理を命じる。焼き加減、煮加減が安心して任せられると立派な助手である。魚釣が趣味で魚捌きに秀でた人もいた。しかし本当に台所では何もできない人もいるもので、その人には“砥ぎ屋さん”になってもらった。

楽しく作って、楽しく食べる

ただし、自由市場故にいつも決まったものが買える訳ではない。運よく飛び切り上等な牛肉が買える日もあれば、鳥しかない、またはアヒルだけの日もある。牛肉は斧で切り落としてもらうし、鳥・アヒルは一羽丸々である。従って土曜日の仕入れによってその週のメニューが決まる。これは一切私の頭の中に置き、公表はしなかった。「今日は何かなー」と思うことが食欲を呼ぶと考えたからである。自由市場故に何も出ていないこともあるので、ホテルの賄い方のデップリめのおばさんに近づいて仲良くしていただき、肉・魚・コニャック・シャンパンを分けてもらったり、食料品店ではお金持ちそうなご婦人が買う高価な缶詰を真似して買ったりもした。いずれも美味しいものを調達するノウハウである。
コック長にはこんな苦労もあったのであるが、皆で作って楽しく食べられたのが何よりであった。何しろ仕事は4時に終わり全員バスで帰ってきて、時間はたっぷりあるのだから、料理は毎日の楽しいイベントでもあった。ついでながら主なメインディッシュを紹介しておくと、ステーキ、焼肉、親子丼、カレー、ハヤシライス、ちらし寿司、炊き込みご飯にそば付、……。喜ばれるコツは料理の組み合わせと、昨日と今日のバリエーションにあることも覚えた。当然のことながら、皆さんの体重が増え始めた。

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ユーラーさんとの交流

ロシアでの友好

ユーラーさんは、計測屋のビクトル君が紹介してくれた、彼と同じアパートの住人で、土建屋さんであった。ユーラーさんもビクトル君も、インドの製鉄所の建設指導で一緒だったらしい。また奥さん同士も学校の先生で、家族ぐるみで付き合っていたようだ。従って2人とも少し英語が話せたのが幸いであった。
 ビクトル君に誘われてユーラーさんを訪問したのが最初であり、彼のお父さんがドストエフスキーの愛読者であったらしく、ここから話は進んでいった。彼がロシア語の『未成年』をプレゼントしてくれたので、ホテルで日本語のものと読み比べ、次に会ったとき、「この3カ所が最も気に入っている箇所だ」と言ったら彼も大いに同感してくれた。風変わりな読書会であったが、意見の交換ができて嬉しかった。

冬のワカサギ釣りとクロスカントリースキー

ロシアでは冬に湖や川に氷が張ると、馬でも馬車でも走れるので交通の便が良くなるという。また、どこでも魚が釣れるらしい。ビクトル君とユーラーさんが最初に誘ってくれたのがワカサギ釣りであった。上は日本ミズノ製のスポーツ着、足は現地の防寒靴を借りて、ウオツカを飲み飲みワカサギ釣りを試みたが、あいにく天気が悪く風が強くて2時間程でお手上げとなった。釣り上げた魚がすぐに凍るのだからしょうがない。ユーラーさん宅で、釣った魚を煮込んだスープをいただいたら、途端に酔いがまわってきた。
 次にはクロスカントリースキーに誘ってもらった。仲間を募ったら十余名となったが、スキーの板は、学校の先生をしている奥さん達が学校のものを借りてくるから何人でもよいとの事、「公のもの」は「皆のもの」、全く大らかである。この日は晴天に恵まれて快適であった。ビクトル君が先導し、その後を我々が歩いたり滑ったり。小高い丘に立てば景色を見渡して小休止を取り、また駆ける。ユーラーさんは後尾でフォロー。野生の兎も歓迎の挨拶に顔を見せてくれたりして、ロシアの広さをつくづく身に感じた一日となった。

ドン河のカヌー下り

もう一つ遊びの話を読んでいただきたい。なにぶん日本から出かけた監督者の生活は8時〜4時で残業なし、春先からは金曜日は半ドンで土・日は全休。これを有効に使わない方はないと、よく戸外に出かけたものだ。特に夏は日が長く、一面の緑に囲まれて、風は爽やか、そんな時にユーラーさんが息子さんまで動員してプレゼントしてくれた素敵な一日があった。
 カヌーは3人乗り、ユーラーさんは上流で我々を見送り、終着地では車にて出迎えてくれた。誠に念の入った接客振りである。今、想いだすだけでも親切に付き合ってくれたロシアの友に大いなる感謝を贈りたい。この辺りはドン河も上流、水は凄くきれいで人影もなし。
 古い教会や小高い丘を左右に見ながら、ゆっくりと下っていく、途中で泳いだり網で魚を採ったり、昼はバーベキュー。私も特製の“おにぎり”を持参していた。大自然の中での昼食もまた格別であった。

私のお返し

謡曲の『隅田川』は、人商人にさらわれたわが子を訪ねて京都から隅田川まで下ってきた母親が此処でわが子の死を知らされる。渡し守の語りの中に、この川岸でただ独りで亡くなった幼子の様子と、母への心残りが見事に語られている名曲である。当時、日本映画の『寅さん』がロシアでも人気があるらしいとの噂を耳にしたこともあり、これに勇気百倍。この日本の芸術性を何とかして伝えてみようと努力してみた。ロシア語への翻訳にあたっては、もちろんロシア人の通訳にも手伝ってもらった。謡はもちろん日本語であるが、少しオーバーな表現をとった。着物と袴、白足袋もつけ、扇も持った。
 ユーラーさんとビクトル君夫妻とも目を赤くして聞いてくれた。民族と言葉の障壁を越えて解ってもらえたと思っている。悔やまれるのは能舞台の写真を1枚も持って行かなかったことである。

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大きな出来事

わが人生の師の墓参り

ノボリペツク製鉄所の方でも我々監督者に色々と気を使ってくれて、日帰りや、1泊2日のバス旅行に誘ってもらった。バス旅行というのは、近くにある、ツルゲーネフとトルストイの生誕地を訪問する企画であった。3〜400kmからなる3角形をバスで走ったが、車窓からの景色は全く同じ、食事も同じ、風呂が無いのも同じ(当時ソ連では6月頃に1カ月間、ボイラー点検の為給湯休止となった。従ってホテルでも風呂・シャワーが使えなかった。地域が変われば、と期待していたのであるが……)という状況では、行った甲斐がなかった。
 そのような中での一番のイベントはレニングラード(現サンクト・ペテルブルグ)旅行であった。特別の計らいで地元の飛行場(ここは軍の基地でもあるので外国人は立ち入れない)からレニングラードに飛んだ。また当地レニングラード交響楽団の演奏会に行けたのもラッキーであったが、一番の私の望みはドストエフスキーの墓参りであった。彼はこの地の仕官学校に入学して以来この地に縁が深い。処女作『貧しき人々』が思わぬ反響を呼び、いろいろな事件に巻き込まれていくのもこの地でのことである。
 従ってモスクワとは違って、ドストエフスキー記念館は立派なものであり、机を始めいろいろな遺品が並べられていた。ネフスキー通りを行き着いたところにあるネフスキー修道院にわが人生の師の墓を見つけて、感謝の花束を奉げた。

ゴルバチョフの失踪

1991(平成3)年8月19日、朝起きてニュース・天気予報を見ようとテレビのスイッチを入れると、音楽番組。
 “これはおかしい”と思い、電話で通訳を起こしテレビを見るよう伝えたが、「何もない!」と言う。フロントに走ると、案の定フロントの女性達は大騒ぎ、「何かあったのか」と尋ねた。ことの状況は正確には解からないが“ゴルバチョフが失踪した、これはクーデターだ”とは理解できた。友を誘って屋上に上がり見渡してみても、戦車も装甲車も出ていない。モスクワの騒ぎであり当リベツク州は平穏であると判断し、迎えのバスも変わらず来たので、工場に向かった。

わが国の対応

モスクワの日商との電話でおおよその事はわかった。昼過ぎ(東京は朝)には本社からも連絡があり、“全員帰って来い”とのことで、航空機の手配を試みたが、全て予約済みで入手は不可。とにかく、国営放送1本で民放がない国の現地では何もわからない。頼りは電話(しかし日本への電話は3、4日前の予約が必要)従って日本からの連絡を待つしかない。当時NHKでは日に3回15分程度の海外向けニュース番組があった。普段でもそれとなしに聞いていたのだが、今回ばかりは、まず何よりもと深夜に眠たい目をこすって聞いていると、「高校野球が延長戦になりましたので“ニュースを中止し”このまま野球放送を続けます」。本当にこの国はどうなっているのか!と嘆いた事であった。
 ドイツは対応が違っていて、ドイツの放送局はソ連の状況をどんどん流しているとか。同じ製鉄所で働いている、しかも我々が納めるコンピューターの上位の電算機を据付けているジーメンス社の連中は、明日にもドイツからの救出機がこのノボリペツク(軍事飛行場)に来るという。国力の差をつくづく感じさせられた。

ドイツとの差を思い知る

幸いエリツィンの活躍でことが平穏に収まり、安堵した。私はたまたま、パスポートの期限が切れるため、更新のためモスクワに行く予定であったので、次の土・日に出かけた。事件が起こった現場では、献花の花束が積まれ、ある若者が「我々が戦車を止めたのだ」と息巻いていた。
 大使館に行った際に、騒ぎの一部始終を知ろうと、日本の新聞を見せて欲しいと言うと、何処にもない。館員が自宅に持って帰っているのだと言う。本当にわが国のことながら、情けなく思ったものであった。とにかく、ドイツとの差が顕著であることをつくづく思い知らされた出来事でもあった。

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フランスへの計量管理技術の輸出

有機皮膜測定装置

1989(昭和64)年頃、フランスの製鉄会社ユジノール社の子会社で自動車用電気メッキ鋼板を製造することになった。この製造技術は川鉄(現JFEスチール)のものであり、同じE/D事業部の圧延グループの手によってプラント輸出された。  このプラントに設置される有機皮膜測定装置の輸出ならびに測定に関する管理技術指導を我々電計グループは担当し、ソ連から帰ってきたばかりの私がその任をまかされた。元来自動車用鋼板の特色は、耐食性と溶接性が優れていることにある。この二律背反の性質を兼備させる為には精度の良い膜厚測定を必要とした。正に「測れぬものは造れない」である。
 この膜厚計は赤外線を金属板上の厚さ1um程の有機皮膜に照射し、皮膜よる吸収量を測定することを原理としている、我が社が開発した装置であり、それをいかに運転管理していくかということも、我が社で生まれた技術である。一般に赤外線膜厚計といえば何処にでもありそうだが、これは鋼板に使用している有機皮膜を検知するのに最も適した波長と特殊なフィルターを用いたものであり、この自動車用電気メッキ鋼板には欠かせないものであった。

利用方法と管理技術

また同設備では、このセンサーを板幅方向のスキャニングを行いながら幅方向の膜厚分布も測定できるようにもした。  輸出する技術範囲は、膜厚計の本体とスキャニング装置、および標準サンプルの作成方法と膜厚管理技術であった。  1992(平成4)年、フランスから来た客を千葉製鉄所に連れて行き、今度輸出のモデルとなった自動車用鋼板のプラントと、そこに据付けられている有機皮膜測定装置に案内して説明した。驚いたことはフランス人の英語理解である。私が約20年前単身でフランスに行った時は「フランス人は自国語にプライドを持っていて英語は喋らない」とかで、警官でさえ受け付けてくれなかった。そのフランス人が、私の拙い英語を良く聞いてくれるのである。
 標準サンプルの作り方から測定器の校正方法、日常点検と異常の検出方法など、何分にも測定対象が鋼板上の1umの膜厚であるから手続きは込み入っている。細かい質問が出てきたらどのように答えるか心配したが、千葉の現場は何とかパス。製造を依頼している大阪のメーカーには現地で通訳を依頼する事にしたので、やれやれであった。

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私を支えてくれた家族

子供の笑い

今まで述べて来なかったが、私には4歳年下、1940(昭和15)年生まれの家内と1966(昭和41)年生まれの長女、1969(昭和44)年生まれの長男がいる。2人の子供は神戸・西宮工場勤務の時代に生まれ、当時宝塚在住の家内の両親や、引退後、丹波(かって私が育った疎開先の田舎)に移り住んだ私の両親にも囲まれて育った。私や家内関係の従兄弟、姉妹も周辺に十余人いて、わりあい賑やかな環境であった。
 仕事の休みが取れた折には一家4人で、行楽地にも行った。そんな時ふと気がついたのは、子供達の見事な「笑い」であった。本当に楽しく、心の底から溢れてくる「笑い」、それは他ならぬ子供の無邪気さ、純真さから来るものだと思った。
我々大人はいつの間にか忘れ去ってしまっているが、本当に取り戻せないものなのか。
 愛読するドストエフスキーの『未成年』の中で、主人公アルカージイは、笑いを「最も正確な、魂の試金石」と規定し、巡礼のマカール老人の笑顔に理想的な無邪気さ、善良さを見出す。そして、マカール老人が持つ精神の「端麗さ」を憧憬する。
 私もまた、この「端麗さ」を追い求め、当時の年賀状にも目標として掲げた記憶がある。

子供の成長

1975(昭和50)年の欧州出張の時は、子供達もまだ小学生と幼稚園児であったので、3週間の長きにわたって留守にすることをよく話しておかねばと考え、近くの緑地公園に出かけて話し合い、しばらくの別れを惜しんだ。留守中には、家内が2人の子供を連れて、ゴールデンウィークの混雑した列車で丹波での法事にも出てくれたことを聞き、私の子育ても1ステップ完了したと実感したものである。
 息子が小学生高学年の頃には、私と共に丹波に行き、春先の山で椎茸の原木を切り倒して運んだり、父が催す謡会の舞台で子方として謡って父を喜ばせたりもした。
 今、私も当時の父と同じ年頃になり、同じ年恰好の孫が来てくれた時の喜びは、父も同じものであったろうと実感する。

東京転勤

 

1984(昭和59)年、東京本社のエンジニアリング部門に転勤を命じられたときは、息子がまだ中3であったので、単身赴任をするか否かで迷うところもあったが、率直に家内と子供2人に決断を迫った。「日本には関西と関東に2つの異なった文化圏がある。奈良・平安・室町時代は関西が主導的であったが、今は関東である。お父さんと一緒に東京に行かないか」と。そして約1月後には、家内から2人共行く決心が付いたようだと聞いた。この時には“もう子供たちも立派なものだ”という気がしていた。
 ところがである、それから12年後の1996(平成8)年、単身赴任の赤穂で最後の仕事を終えた時、父の要請もあり一時期関西に帰ろうかな?と思った時があった。その事を千葉に帰った時、家族に相談したら、今度は「お父さん一人で帰れ」と冷たく言われた。千葉の人と結婚した長女、関東の会社に就職した息子、子供たちと共に生活し多くの知己を得ている家内にしてみれば今更関西に!と思うのは当然であろうが、皆一人前になったことを喜びながらも一抹の寂しさを感じたものであった。

気遣い

話は少し昔に返るが、ソ連への長期出張に際しては、すぐ外に出たがる私の行動を予期してか、娘が防寒の体操着を買い求めて持たせてくれた。これはワカサギ釣りや、クロスカントリーの際に実に役立った。この娘は現在、3児の母である。
 また、当時東京理科大学物理学科在学で、就職を控えていた息子には、行く気はないかも知れないが、祖父から私まで3代にわたって世話になった会社であるから、一度は訪問しておくようにといい、計測の後輩に案内も頼んでおいた。就職には至らなかったが、親の顔は立てておいてくれた。素直なところが嬉しかった。今では2児の父となっている。

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播州赤穂へ

あちこちへの挨拶

1992(平成4)年、私は56歳の管理職定年となり、播州(ばんしゅう)赤穂にあって耐火レンガを製造する川崎炉材(株)に移ることになった(当時の川鉄では、管理職は56歳で例外なく社外勤務となった)。
 川崎炉材(株)では、私の入社当時千葉で熱管理課長だった方が、社長として私を迎えて下さった。他にも神戸での同僚や千葉での仲間がいて、昔話には事欠かなかった。
10年振りに関西に帰り、兵庫県の計量協会にも顔を出し、皆さんに喜んでもらった。特に当時の計量器使用事業所の集まりである管理部会の催しでは懐かしい顔ぶれに会い、お互いの健康を喜びあったものであった。
 その上、この播州は我が家のルーツである姫路を取り巻く地域であり、親戚筋も多い。祖父の里である飾磨(しかま)を始めとして、網干(あぼし)、那波野(なばの)、有年(うね)にも浄土真宗のお寺がある。幼い頃の想い出やその後の交流も懐かしく、挨拶に廻ったものであった。有年のお寺では、私が「謡と仕舞のお稽古をこの辺りのお稽古場で始める予定だ」と話したら、即座に「こんな田舎で習い事をする人があるかいな」と一喝された。「いや姫路の先生がここに通ってこられるのだ」と言うと、「それならば姫路の先生の自宅に通うべし」と諭され、それに従った。
 独身寮に一番近い相生(あいおい)市那波野のお寺の院家は、これからは「電話をかけずに、何時でも来て泊まって帰れや」「電話を貰うとご馳走せんならんでな」と気安かった。

いかにして貢献するか

川崎炉材の社長は私に、「ここは耐火レンガの製造工場であるが、計量・計測の課題が多いので君に来てもらった」と話された。2人で3回に分けて現場を歩きながら、社長から説明を受けつつ責任感が増し加わって行くのを感じていた。
 温度では1850℃にも達する超高温キルン(焼成炉)があり、力では1000t級のフレクションプレス(原料を押し固める)も多数あった。1600℃〜1700℃の溶鋼に耐えて精錬を進める、器に用いられるレンガの底力に触れた思いであった。
 結局、私のテーマは、私が見て聞いて考えた上で、社長に提案させていただくという事にした。工場をトータル的に見た上で、正に「いかにして貢献するか」を課題として頂いたのである。

間違い防止と省力

やはり現場は最良の教師であった。省エネルギー・熱経済的課題もあったが、矢張り勝負は品質・生産性であると判断した。そしていろいろと話を聞き、あれこれと教えてもらっているうちに、ふと気づいた。人間には物事に思いを巡らしてヒントを得たり、創造したりといった素晴らしい能力があるが、同じ作業を繰り返してやっていると、逆に飽きてしまいすぐに忘れる欠点もある。うっかりミスである。しかし、コンピューターや機械は、決められたことはバカみたいに繰り返してやっている。
 耐火物の原料は多種にわたり、あちこちから切り出してきて1つの配合に纏められる。計量器も散在し、その間をフォークリフトや手押し車が活躍していた。
 これを在来設備と小規模なホッパースケールを用いて、パソコンやシーケンサーで繋ぎ合わせ、ミキサーへの原料配合を自動供給する省力設備として立案した。そして皆さんの意見も大いに取り入れて、据付・調整ではまた大勢の方々の協力をいただき、完成させた。
 これは、プレス成形するレンガのミキサーで混練する前の原料配合工程の自動化に当たるが、これで自信も協力体制もできて、次の更なるプロジェクトに進むことになった。

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FAラインの建設

営業情報による即日対応

耐火レンガを大別すると、成形して乾燥または焼き固めるものと、粉体で納め、炉修工事に際して水で溶いてマッドガンなどで塗りつける「不定形」と呼ばれるものと、2種類がある。
 最近は過酷な環境で働く築炉工が少なくなったので、不定形レンガの需要が急増している。しかし、不定形は乾燥すれば個々に特色のある硬い耐火レンガになるだけあって、原料配合の計量は厳重でなければならない。また、原料の選び間違い、入れた筈が入っていないといった人間特有のミスも絶対に許されない。このミスを防ぐ方法として、当時はまだ出始めであったバーコードを用いた自動照合システムを採り入れた。
 不定形レンガの特徴として、顧客によって修理しようとしている炉の状況が変化すること、炉の緊急事態により急遽修理材料を提供する場合も必要なので、営業情報によっては、正常工程に割り込みをかけて直ぐに製造にかかれる体制を備えるために、パソコンソフトを駆使することを考えた。

生産計画からの参画

これまで多くのコンピューターシステムを計画してきたが、制御用が多かったためか営業情報・生産計画は上位のコンピューターからもらっていた。しかし、客先への素早い対応も大きなメリットと考え、生産計画への割り込みを可能とし、しかも直ぐに出荷時期の返事が出るような営業対応の機能を持たせるシステムとした。正に生産計画からの参画である。また柔軟に対応して行くこのシステムをフレキシブルマニファクチャリングオートメーションから「FAライン」と呼んだ。標準工程ならば1週間から10日を要するが、運が良ければ割り込んで3日後も可能というプログラムである。

生産性・高品質・短納期を目指す

設備の過大化を防ぐためと計量精度を上げるために、メインのホッパースケールは200kg/0・1kgと小さい。ただし多種類の原料を使うので貯槽は50槽に近い。おまけに、少量の添加剤もあるので、これらは1kgから2kgで手計量する。合計では、秤量2tから1kgまで約30台のはかりを使った。大半は自動はかりである。これらを、ハブで結ばれた6台のパソコンを駆使して計量し、5本のベルトコンベアで集めてミキサーに投入、最後にフレコンまたは紙袋梱包にて出荷となる。

協力者と共に

工場は赤穂の海岸近くに在り、少し掘ると塩水が湧いてくるため、FAラインの建設は、鋼矢板をどんどん打ち込む基礎工事から始まった。計測屋の仕事としては、西宮工場の建屋集塵機以来の大工事である。土建にも精通した機械屋さん、シーケンサーを駆使出来る電気屋さん、営業情報を良く勉強してくれたシステム屋から成る、強力なスタッフが支えてくれたからこそ、また社長・専務のバックアップにも恵まれたればこそ出来た仕事であった。それにしてもFAライン完成後、原料が正確に計量され、集められ、大きなロットとなり、工程が進んでゆくのを見るのは実に楽しいものであった。現役最後の仕事としても「計量・計測をやって来て良かった」とつくづく思った。
 このFAラインは、品質と生産性に優れていて、今も順調に稼動を続けており皆さんに大変喜ばれている。

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東京計量士会

神戸から東京へ

1996(平成8)年、赤穂でのFAラインの建設も終わり初期トラブルも落ち着いた頃、赤穂を引き上げて千葉に帰る準備に入った。定年の60歳、今まではただ半年か1年先のみを考えて走り続けた40年足らずの会社生活、まずはゆっくりと人生の休みを取ろうと考えていた。
 長年世話になった計量士会も、退職後は当然縁がなくなると思っていた。しかし、立つ鳥跡を濁さず、という事もあるので、出向いてお礼を述べた上でと考え、神戸に小川敬司支部長を訪ねた。ところが支部長曰く「せっかく長いことやって来られたのだから、東京に帰ってからも続けてやりはったらよろしい」と、思っても見ない方向に話が進んだ。小川さんの説得を受け入れた訳ではないが、急いで退会することもないとも思うに至った。

まずは材料試験機の校正から

帰葉後、小川さんの指示に従い、東京都新宿区にある日本計量会館に奈良部尤副会長を訪ねた。奈良部さんは「話は兵庫の小川さんから聞いている、東京でやって欲しい仕事もある」とのこと。そして、当時材料試験機を一手に引き受けてやっておられた出羽善衛さんを紹介して下さり、出羽さんから材料試験機の校正手順の手ほどきを受けることになった。
 試験機の校正実習は、私の車に校正用分銅を積み込み、出羽さんが助手席で道案内という形でスタートした。単純で操作が分かりやすいからということで、ショッパーの実習から始まった。データの取り方、まとめ方は勿論のこと、客先での対応から後始末まで丁寧に教えてくださった。

小型はかりの検査と適管の実務

私は旧法の計量器使用事業場(適正計量管理事業所の前身)の計量士を30年やってきたが、30t〜50tの大型ないしは50kg以上の中型のはかりが主であり、小型はかりの検査はどこかの講習で学んだ記憶があるくらいで、実務の経験は殆んどなかった。また計量器使用事業場の実務も作業長さん達にまかせっきりで、印鑑をつくぐらいあった。その上、新計量法には馴染みが浅い、このような私にとって、東京計量士会には何でも聞ける心強い先生達が揃っていた。小型はかりの検査方法は高梨園司さん、新法の適管事業所での実務は長野暢夫さんが親切に教えて下さった。その他、量目のことや分銅のこと、OIMLに関する事柄など、先生には事欠かないグループが東京計量士会である。

更に広い輪へ

白石C元会長にも量目検査や統計手法など種々のことを教えて戴いた。今思えば、赤穂から帰って来た時は何も知らなかったような気がするのである。皆さんには感謝の気持ちでいっぱいである。また、ここを足場として関東甲信越地区計量団体連絡協議会(関ブロ)や全国計量士大会に出入り出来ることも、私にとっては幸いなことである。  このようにして、東京に帰ってきて以来新計量法に馴染み、勉強を進めて行くうちに、この新計量法は消費者向きであっても、自分が経験してきた製造業での仕事からは随分遠く離れているのに気がついた。従って外に対しては、まず「特定計量器についても、計量士にスパン調整をさせるべきだ」と訴え、次に、商品量目制度(IQマーク)に関しては「計量士に権限を!」と主張、現在は「自動はかりの管理は計量士の仕事」と、機会あるごとに呼びかけている。いずれも後輩の計量士が力強く育ち、会社や社会のために役立って欲しいとの願いからの活動であるが、既に時代の流れに逆らっているような気もしている。

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日東富士製粉(株)東京工場で計量管理

管理台帳と質量標準管理マニュアルの作成

材料試験機の実習を終え正式の検査員となった1998(平成10)年の暮、日東製粉(現日東富士製粉)への計量士派遣の要請が日本計量士会松本弘美専務理事よりあり、奈良部副会長の命に従い、1999(平成11)年の1月から週2日は東京工場に計量士として勤務することになった。
 私は製鉄会社の出身であり、製粉工場は初めての経験であったが、計量・計測の技術を生産管理や品質保証に生かす事は変わらないと考えた。ただ現場的には、何事も教わる以外にないと決めて色々教えてもらった。前任者が残した管理台帳もないではなかったが、現場の各計器を覚えるためにも始めから作り直した。ところが、2月になって東京都計量検定所に挨拶に向かったところ、当時の林紘治係長より「質量標準管理マニュアルを年度内に作って欲しい」との要求があった。これも勉強だと考えて指導されるままにしゃにむに取り組んだ。

計量管理委員会の開催

「質量標準管理マニュアル」が受理され、管理台帳も整い始めて一息ついたところで、計量管理の諸課題について思いをめぐらせた。適管であった川鉄の工場(現JFEスチール阪神製造所)を離れて約15年は経っていても、計量検定所との書類のやり取りはすぐに甦ってくる。その懐かしさに喜びを感じながら、ここで私の計量士としての有終の美を飾ろうと秘かに決意をしたものであった。
 当東京工場も、ISO9000のキックオフの年でもあったので、お互いに新鮮な気分で対応が進んだ。私はまず工場全体の課題に取り組む決意を見ていただくためにも、自己紹介をするためにも、工場長以下部課長に集まっていただき、計量管理委員会を催して欲しいと申し出た。当時の田村工場長は快く受けてくださり、1999(平成11)年6月に臨時の第一回委員会が開かれた。以降第2回からは11月を定期開催月としている。

通産大臣表彰受賞

大久保工場長が来られた頃、東京都計量検定所の林係長より「通商産業大臣表彰(優良適正計量管理事業所)の候補になっているので頑張らないか」との打診を受けた。精力的に働いて厚さ5cmぐらいの資料を作らねばならないことは知っていたが、管理体制を一層充実させるためにもしっかり勉強する機会だと思い、工場長以下の同意を得た上で受けることにした。8月末には被審査書類を作成提出、11月の計量記念日には大久保工場長以下3名が受賞式に列席した。骨身を惜しまず協力してくれた当時の青木真課長には感謝の意を表したい。その後、突然彼の逝去を知らされ驚いた。いまだに無念さが込み上げてくる。

流量計の精度向上など

“工場全体で進める計量管理”も10年も続ければそれなりの成果を生み、体力も付いてきたと思っている。  具体的には、バラ出荷積み込み用のトラックスケールの精度向上、隣接する2つの小ポッパーに交互に小麦粉を入れてその重量を測ってゆくストップレス流量計や、傾斜板に小麦を落しその抗力を測定し間接的に流量を知るインパクト流量計(共に三協パイオテク(株)製)を計量管理に取り込み、給水流量計の管理と共に品質保証に役立てていること。繰り返し計量による累積誤差を最少にするために、ホッパースケールの分銅管理の厳重化に努めていることなどがある。

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東京都計量管理研究会

研究会での大いなる出会い

日東製粉に行き始めて間もなく、「東京都計量管理研究会」なるものがあることを知った。縮小の一途を辿っていた当研究会ではあったが、99(平成11)年頃は、まだ盛況時の影が僅かに残っていた。秋にはバスを仕立てて(株)荏原製作所の藤沢工場、東芝機械(株)の御殿場事業所経由月ヶ瀬温泉で、一泊の研修旅行が行われたので参加したが、これが最後のバス旅行であった。(株)荏原製作所の小澤典夫氏、白石誠一氏、藤倉電線(株)(現・(株)フジクラ)の石野昇氏、(株)石川島造船所(現・(株)IHI)の野々宮裕海氏、(株)オーバルの山路隆夫氏らが懐かしい。
 しかし、ここでの一番の出会いは、1950(昭和25)年9月に出された通産省の通達であった。たまたま研究会の会報が50号を迎える記念号として、研究会創設当時の様子を書き残しておこうとした時、総務委員長の先輩に当るミヨシ油脂(株)の田崎さんが出してこられた1通の文章(通達)であった。この通達には1951(昭和26)年6月に出される旧計量法の真髄が述べられているように思われる。全面に渡って“計量管理”の重要性が述べられ、これを行う者として“計量管理士”(のちに発表された法には計量士)を置くと書かれていた。
 この通達が発端となって、更に強力に推し進めるために、各都府県に計量管理協会が設置された。特に東京には「東京都計量管理研究会」が置かれ、当時石川島重工業(株)(現(株)IHI)社長であった土光敏夫氏が初代会長になった。当時の通商産業省が我国の産業界を如何に大きな力でリードしていたかが図り知られる。我国の戦後の復興は、正にこのような優れた官僚の力に支えられていたのであろう。
 この通達とその後の計量業界の動向を知り得たのは、東京に帰り、東京計量士会や東京都計量管理研究会に属するようになったからであればこそで、この50余年に及ぶ自分の計量活動の原点に立ち返らせてくれた偶然の出来事のうちに、必然性を感じるのである。

会員会社が東京から流出

私がこの研究会にお世話になった1999(平成11)年の5月からの会長は(株)荏原製作所取締役の酒井氏であった。ちょうどこの時の総会で、長年にわたって活動してきた6つの分科会が廃止になり、技術研修、普及啓発、総務の3つの委員会にまとめられた。この頃の会員会社数は50社前後であったろうか。
 しかし、東京から近隣県への流失は止まることなく、(株)フジクラ、ライオン(株)に続いて(株)荏原製作所が千葉に、遂には初代土光会長の石川島播磨重工(株)が横浜に移転した。このような有力な大手製造業の流失は、会運営にとって致命的なものとなっていった。
 そしてついに、当研究会も解散し、後は(株)東京都計量協会の部会となって活動を続けることが決められた。2005年5月の最後の定期総会後には、OB会員も招いて盛大に「さよなら懇親会」を催した。なお当総会時の会員数は30社であった。

されど東京

東京都計量管理研究会に出入りするようになって早10年、メンバーはどんどん替わっていったが、計量士という人種は変わらないためか、お互いにすぐに親しくなり、手を取り合って戦えることには少しも変わりはない。この団結と融合性、一見不思議な現象とも取られるかも知れないが、このバックには計量検定所がある故だと思っている。検定所の建物の中に東京計量士会があり、(一社)東京都計量協会があり、そして我が研究部会がある。この生活環境が在ればこそであろう。本当に得がたい環境である。その上、(社)日本計量振興協会にも近ければ、経済産業省の計量行政室だって目の前である。
 2010年の秋には、遣わされて神戸市が主催する計量管理強調月間の講演会で講演させていただいた。その前後には、地方に散らばって苦闘している計量士達にも会い話を聞くことが出来たが、かつて私が活動していた時代との状況の差に唖然とさせられた。
 こんなに恵まれたところにいるのだから、何か世のために、いや計量士のためにお役に立てることはないのだろうか。私を育てて下さった多くの先輩にお返しすること、すなわち後輩のお役に立てることは何があるのか。繰り返し考える昨今である。  

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終えるに際して

感謝

何はともあれ、長い間お付き合いいただき、拙文を読んでくださったことを感謝したい。また、励ましやエールを送って戴いたことは、格別に嬉しく思っている。
 今回は父や祖父にまで遡ってわが国の計量小史を辿ってみた。計量の仕事が最良と決めた祖父は大正の終わりに「神戸メートル商会」を興し、息子にも絶対良い仕事だからと、大学を中途退学させて東京の度量衡講習所に遣ったのだった。
 これが3代に亘る我が家の計量の始まりだった訳だが、黎明期であったとはいえ思い切った判断だと感心する。それから約80余年の歴史を経たが、現在私が持っているはかりに対するポテンシャルは祖父には及ばない。

変遷はあれど不変もあり

昭和の初め高徳衡機(株)で造っていた10tの規格型台秤は、全くの槓杆の組み合わせで、これを送り錘と増し錘で平衡を取り測定していた。これを私が目にしたのは、奇しくも千葉から葺合(ふきあい)工場(旧川崎重工業の製板工場)に転勤した1966(昭和41)年が最後であった。既に陳腐化した代物であったが、いかにも「自分は量り続けてきた」と語っているようだった。それから、さらに45年が経過している。技術は大きく変わったし、背後の社会も更に大きく変わってしまった。変わらないのは、人間の「物事を見えるようにしたい」という欲望であろう。素早く、確かにつかみたいという欲望がある限り、計量計測の課題は永遠に続くだろう。また、これを通してプラントを見よう、工場での諸設備を管理して行こうという計量士も残るだろう。

少しでも良い環境を

引退後15年にも及ぶ計量士としての仕事は、現役時代には思ってもみなかったものである。東京で過ごし、予想外の沢山の方々との交わりの中での日々である。このような環境下で、私は「現在の計量法とこれからの計量士」をテーマにしてきたような気がしている。
それを一層ハッキリさせたのが、この『私の履歴書』の著述であった。自分の生涯を振り返って反省しながらこれを書いていると、良くして下さった諸先輩と後輩に対して、これということが何も出来なかった私が対比されて辛かった。この辛さが、一層自分をこのテーマに熱中させた感がある。
 具体的にいえば、私が見聞きしている限りでは、前にも触れた様に、旧計量法が製造事業所向けであったのに対して、新計量法は消費者保護に徹している観がある。
 従って製造事業所の計量士は仕事が狭められ、今や存在価値すらなくなりかけているのが現状ではなかろうか。「計量管理」が主なる業務といっても、現計量法にはその定義や内容は殆んど書かれていない。

「自動はかり」の問題

そこで誠に僭越ではあるが、後輩の製造事業所の計量士が少しでも良い環境で働けるようにと考えて、業界や行政の方々にお願いしているのが、昨今の私の専らの仕事となっている。
 具体的にいえば「自動はかり」をOIMLに見習って計量法に取り入れることである。その管理を計量士に担当させると良いと考えている。
 「手動はかり」は法規制の対象で検定・検査はあるのに、「自動はかり」は全く知らぬ・存ぜぬというのも変な話である。国際的にもバランスを欠くと言わざるを得ない。国のためにもなり、計量士のためにもなるのだからこれ程良いことはないので、この訴えを続けていくつもりでいる。今後も皆様のご協力をお願いする次第である。
 南米にこんな民話がある。森に大火事があった時、ハチドリが小さな嘴に一滴の水を含んで、大火に何度も立ち向かっていき、“そんなことをして何になるの”と笑われる。
 今の私は、このハチドリに似ているかもしれない。
(おわり)

 
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データバンクトップ「日本計量新報」特集記事私の履歴書>高徳芳忠
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